Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井泰重

長井 泰重(ながい やすしげ、1220年頃?~没年不詳(1270年代半ば頃?)) は、鎌倉時代前・中期の人物、御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家の初代当主。 

 

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こちら▲の記事で、兄・泰秀の生年が1212年であることを紹介した。よって弟である泰重はこれより後に生まれているはずである。

 

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また、こちら▲の記事で紹介の通り、孫の貞重については1272年生まれであることが判明している。祖父―孫の年齢差を考慮すれば、泰重の生年はおよそ1232年以前とすべきである。

 

以上の内容を踏まえながら、以下史料での登場箇所を見てみよう。

 

『民経記』(広橋経光の日記)天福元(1233)年5月9日条:新日吉小五月会および後堀河天皇臨幸における流鏑馬の勤仕者の、一番「駿河守重時(=北条重時」に次ぐ二番「長井次郎泰重*1。  

通称名が「次郎」と称するのみであることから、この当時はまだ無官であったことが分かるが、元服からさほど経っていなかったからであると考えられよう。従ってこの頃は10代後半~20歳前後の年齢であったと推定される。 

 

『平戸記』(平経高の日記)寛元2(1244)年9月9日条に「長井左衛門大夫泰重*2。 

左衛門大夫」とは、従六位下相当の左衛門尉でありながら五位となった者の呼称*3。叙爵に相応の年齢を考えれば、この当時20代半ばには達していたと考えるべきであろう。

 

以上2点より1220年頃の生まれと推定される。これを踏まえて他の史料も確認してみよう。

 

『葉黄記』(葉室定嗣の日記)宝治元(1247)年5月9日条:新日吉小五月会における流鏑馬勤仕者の七番に「長井左衛門大夫泰重*4

吾妻鏡』建長4(1252)年4月1日条:新将軍(6代将軍)就任のため鎌倉に下向する宗尊親王随行するメンバーを記した「(次)自京供奉人々」の中に「長井左衛門大夫泰重*5

建長5(1253)年4月日付「新日吉小五月流鏑馬定文案」(『厳島野坂文書』)の文中に「長井左衛門大夫殿*6

 

*この4年の間に因幡任官を果たし、辞したことが分かる。前述の推定生年に基づけば30代半ばの年齢だったことになるが、国守任官の年齢としては相応である。

 

『経俊卿記』吉田経俊の日記)正嘉元(1257)年5月11日条:「去九日依洪水(洪水に依り)延引」されてこの日に行われた新日吉小五月会において、流鏑馬勤仕者の七番に「長井因幡前司泰重*7

 文永元(1264)年4月26日付「関東御教書」(『新編追加』所収)の「因幡前司殿」を泰重に比定*8。この当時の泰重は備前・備後両国の守護であったという*9。 

 

紺戸淳は、元服は通常10~15歳程度で行われたとして、御家人を例に取り上げて、北条氏得宗家と連続的に烏帽子親子関係を結んでいたとする論考を出されているが、生年が不明な長井についても北条偏諱授与者と推定されている*10

改めて、前述の推定生年に基づくと、元服の年次は1230年前後と推定可能で、1233年に「長井次郎」の通称名で初出するのと辻褄が合う。この当時の執権・北条泰時 (在職:1224~1242年)*11元服時の烏帽子親を務めたと考えられ、紺戸氏の見解が立証できよう(一方の「重」字は、祖先と仰ぐ大江重光に由来するのではないかと思われる)

 

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建治3(1277)年には嫡子である「長井左衛門大夫頼重」の活動が見られ始め*12、弘安4(1281)年の書状(『東京大学文学部所蔵文書』)にある「長井因幡」も父と同じ官職に就いた頼重に比定される*13。この頃には頼重が家督を継承していたと考えられるが、父である泰重の死によるものではないかと思われる。よって泰重の正確な没年を明らかにすることは困難だが、1270年代半ば頃ではないかと推測される。 

 

 

(参考ページ)

 長井泰重 - Wikipedia

 長井泰重(ながい やすしげ)とは - コトバンク

齋藤拓海「新日吉小五月会の構造と変遷」(所収:『史人』第4号、広島大学大学院教育学研究科下向井研究室、2012年)

 

脚注

*1:『大日本史料』5-8 P.891。森幸夫『北条重時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2009年)P.45~48。

*2:『大日本史料』5-17 P.386

*3:左衛門大夫(サエモンノタイフ)とは - コトバンク より。

*4:『大日本史料』5-22 P.10P.20。『鎌倉遺文』第45巻51366号。注1前掲森氏著書 同箇所。

*5:吾妻鏡入門第三巻 参照。

*6:『鎌倉遺文』第10巻7550号。

*7:古記録フルテキストデータベース(東京大学史料編纂所HP内)より。

*8:『鎌倉遺文』第12巻9080号。

*9:西ヶ谷恭弘『国別 守護・戦国大名事典』(東京堂出版、1998年)P.209・215。

*10:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

*12:同年のものとされる『摂津勝尾寺文書』所収の書状2通、11月25日付「近衛家御教書」(『鎌倉遺文』第17巻12921号)に「長井左衛門大夫殿」、11月29日付「長井頼重施行状」(『鎌倉遺文』第17巻12926号)に「頼重(花押)」の署名が見られる。

*13:弘安4年2月日付「東大寺学侶等申状土代」(『鎌倉遺文』第19巻14260号 または 『大日本古文書』家わけ第十八「東大寺文書別集一」六七号)。