長井貞重
長井 貞重(ながい さだしげ、1272年~1331年) は、鎌倉時代後期の人物、在京御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。官途は掃部助、縫殿頭。
北条貞時の烏帽子子
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辞書によっては生年不詳とするものもある*1が、次の史料によって明らかにすることが出来る。
▲【系図B】『尊卑分脈』より長井氏六波羅評定衆家(泰重流)の系図(一部抜粋)
貞重の名と縫殿頭(ぬひどののかみ)の官途が【史料A】・【系図B】双方で一致することから、長井貞重のことで間違いない*3。【史料A】には、元徳3(1331)年2月12日に60歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると文永9(1272)年生まれとなる。
紺戸淳氏は、このことを紹介の上で、元服は通常10~15歳程度で行われたとして、生年に基づく貞重の元服の年次を1281~1286年と推定し、弘安7(1284)年4月から9代執権となった北条貞時の偏諱を受けたと説かれている*4。同氏が述べるように「祖父泰重―父頼重」も泰時、時頼から一字を拝領した形跡が見られ、その慣例に倣ったのであろう。
貞重に関する史料の紹介
★『実躬卿記』永仁3(1295)年5月26日条:東大寺八幡宮神輿の動座のため延期されていた新日吉小五月会(同月9日条)をこの日に開催。同会における流鏑馬勤仕者の三番に「長井掃部助大江貞量〔ママ〕」*6。前掲【系図B】や次に示す他史料との照合から、「貞重」の誤記であろう。すなわち、長井貞重(当時24歳)の初見史料となり*7、掃部助(従六位上相当)*8に任官済みであったことが窺える。
*この当時も鎌倉幕府の執権は北条貞時であり、貞時執権期間内に「貞」の偏諱が許されたこと確実である。
●『六波羅守護次第』「前□〔上〕野介平宗宣 陸奥守宣時一男」(=大仏宗宣)の項:「…永仁五・七・廿七、入洛、着于長井掃部助貞重宿所六条車大路、……同六・正・廿八、自貞重宿所、移□□〔徙新カ〕殿。……」*9
●『鎌倉大日記』永仁5年条・上野介宗宣(宣時男)項:「七月十日宗宣立鎌倉、同廿七日入洛、住南、先落着掃部助貞重屋形」*10
北条(大仏)宗宣が六波羅探題南方に任ぜられ、永仁5(1297)年7月27日に京都入り(『鎌倉大日記』によると同月10日に鎌倉を出立)したことは上記2つも含め複数の史料で伝わる*11が、この宗宣が翌年の正月28日に「新殿(=南殿 六条大和大路。時房旧跡。)」に「移徙(わたまし)*12」するまで長井貞重の宿所を評定の場としていたという*13。
★『実躬卿記』嘉元2(1304)年5月29日条:延期によりこの日に行われた新日吉小五月会における流鏑馬勤仕者の七番に「長井掃部助大江貞重」*14。
●『実躬卿記』嘉元4(1306)年10月17日条:「又去十三日所差進両使貞重宗康、参会彼飛脚之条、勿論」*16。
● 徳治2(1307)年4月28日付「長井貞重施行状」(『摂津勝尾寺文書』)*17:「縫殿頭貞重」の署名と花押
*同じく『勝尾寺文書』に所収の、同年の史料とされる、「摂津菩提寺別当職支証文書目録」にある「徳治二年四月廿八日縫殿頭貞重判□□十通」*18、および 4月27日付「近衛家御教書」の宛名「縫殿頭殿」*19は、いずれも長井貞重に比定される。
★『武家年代記』裏書・正和4(1315)年6月27日条:「正和四六廿七、八幡神人成仏法師被解却神職、即被預長井縫殿頭、依新日吉社并山内馬上役事也、……(以下略)」*20
(読み下し:八幡神人成仏法師神職を解却せらる。即ち長井縫殿頭に預けらる。新日吉社並びに山門馬上役の事に依ってなり。……)*21
★『公敏卿記』文保2(1318)年2月21日条:「廿一日 天晴伝聞六波羅使縫殿頭貞重向北山云々、……(以下略)」*22
六波羅の使者として西園寺家に赴き、公武折衝の任に当たったと伝える。
★ 元応2(1320)年8月日付「金剛峯寺衆徒等解状」(『紀伊金剛峯寺文書』)*23の文中に「備後国守護縫殿頭貞重」。
●(元応2年?)9月24日付「東寺長者法務道順書状」(『高野山文書 宝簡集』六〈大塔御下知二〉所収)*24:
●(元応2年?)10月13日付「備後国 尾道浦 守護 縫殿頭貞重書状」(『高野山文書』)*25:上の史料と「貞重」の実名と花押が一致することから長井貞重に同定される。
●(元応2年?)10月22日付「東寺長者法務御教書」(『高野山文書 宝簡集』七 所収):文中に「高野山大塔領備後国太田庄間事、縫殿頭貞重状……」とあり、日付の上に「元應二(=元応二)」の追筆がある*26。
●(元応2年?、日付不詳)「円覚申詞記」(『高野山文書 又続 宝簡集142』)*27:
●(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』:元亨3年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、「長井縫殿頭」が銭100貫文を進上*28。この行為からも貞時との関係が窺える。
★(元徳元(1329)年?)11月21日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』):「……治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉。貞重以下一門、定もてなし候らんと覚候……」*29
同年とされる10月28日付の崇顕書状にも「…治部少輔由緒も候時に、いか程もふるまひ候らんと存候、長井一門いかにもてなし候らん、可承存候、…」とあり*30、関東(鎌倉)から東使として上洛してきた高秀を、六波羅評定衆として在京の長井貞重の一族がもてなしたことがわかる。小泉宜右・細川重男両氏は、この高秀を貞重と同族の、長井関東評定衆家の人(長井高秀)と推定されており*31、筆者は長井貞秀の子・広秀の初名ではないかと推測する*32。
● 元徳2(1330)年9月3日付「長井貞重御教書写」(『毛利文書』)*33の花押 … 上記の花押との一致から、この書状の発給者は長井貞重に比定される。
★『常楽記』元徳3(1331)年2月12日条(貞重逝去)→ 前掲【史料A】
*次の史料は、死後間もない頃に書かれたと思われる「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*34である。
□□□□□匠御札、昨日□□、到来、
□□□□□事 先日承候之間、
□□□□□候き、貞重凶害事、
□□□□□を出羽入道*1に申請預候之間、
あらわれ候、よし承候ぬ、誠言語道断事候歟、
信意*2内々令申候之趣、委細承候了、可存其旨候、
執□□□〔達如件の類カ*35〕
*1: 二階堂出羽入道道蘊(貞藤)。
*2: 前年のものとされる8月21日付「東寺長者御教書案」(『東寺百合文書』)にある「権大僧都信意」か。
『鎌倉遺文』では「貞重凶害事」を元徳3年2月12日に貞重が亡くなったことと解釈しており、死因はどうやら他殺のようである*36。生前の高野山とのトラブルがエスカレートした可能性もある。
● 元徳4(1332=元弘2)年4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」(『東大寺文書』):「…自嘉暦元年、申付縫殿頭子息勝深律師之間、…」*37
この部分は、かつて正中3(1326=嘉暦元)年3月、長井入道道雄(宗秀)から継ぐ形で「縫殿頭」の子息・勝深(しょうしん)律師が茜部庄地頭職を継いだ(元徳元年まで同職を知行)*38ことを記したものである。のちに応永5(1398)年6月22日付で僧・隆宥が出した「伝法潅頂職衆請定案」にも「……勝深僧都入壇 嘉暦四〔=1329〕年丶丶云々、……左衛門督僧都勝深 長井縫殿頭子 丶丶丶丶猶子……」*39と書かれているので、勝深は「(長井)縫殿頭」=貞重の子(高広の兄弟)と分かる*40。
(参考ページ)
脚注
*2:『常樂記』(龍門文庫蔵古写本)。『常楽記』(群書類従本・翻刻版)ー 慶応義塾大学Google図書館プロジェクト)。『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘元年正~三月 P.23。
*3:小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.727 註(12)。紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.16~17。
*5:注3前掲小泉氏論文 P.725~726。
*6:『大日本古記録 実躬卿記』。『実躬卿記』10(国立公文書館 デジタルアーカイブ)P.57。
*7:長井貞量(貞重)の流鏑馬勤仕は、かつての新日吉小五月会に在京人として参加していた祖父・泰重(→ 長井泰重 - Henkipedia)を彷彿させるものである。
*8:掃部寮 - Wikipedia より。
*9:熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.103(867)。
*10:竹内理三編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.212。佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について (上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.18 注(21)。
*11:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.72「大仏宗宣」を参照のこと。
*12:「場所を変える(移す)こと、転居すること」の意。移徙/渡座(ワタマシ)とは - コトバンク/移徙・渡座(わたまし)とは - コトバンク 参照。
*13:注9前掲熊谷氏論文 P.112~113 より。新たに建てた「南殿」については P.115までを参照のこと。
*14:『実躬卿記』15(国立公文書館デジタルアーカイブ)P.18。
*15:縫殿の頭(ぬいどののかみ)とは - コトバンク より。
*16:『実躬卿記』17(国立公文書館デジタルアーカイブ)P.15。注11前掲細川氏著書 P.416 註(8) では貞重・町野宗康がともに六波羅評定衆であったと説かれている。
*17:『鎌倉遺文』第30巻22953号。『箕面市史 史料編1』276号。
*18:『鎌倉遺文』第30巻22954号。
*19:『鎌倉遺文』第30巻22951号。
*20:『増補 続史料大成』注10同書 P.156。
*23:『鎌倉遺文』第36巻27558号。
*24:『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.59(六〇号)。
*25:『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.68(七一号)。
*26:『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之一 P.94(九八号)。『鎌倉遺文』第36巻27603号。
*27:『鎌倉遺文』第36巻27604号。『大日本古文書』家わけ第一 高野山文書之八 P.633(一九六九号)。
*28:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。
*29:『鎌倉遺文』第39巻30779号。『金沢文庫古文書』第1輯443号。
*30:『鎌倉遺文』第39巻30765号。『金沢文庫古文書』第1輯404号。
*31:注3前掲小泉氏論文 P.720。注11前掲細川氏著書・同職員表No.138「長井高秀」の項(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№138-長井高秀 | 日本中世史を楽しむ♪)。
*32:長井高秀 - Henkipedia および 北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔表C〕注(15) 参照。
*33:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之四 P.403(一五〇七号)。尚、この箇所では文書の奉者を「貞宗」とするが、恐らくは「貞重」の誤読と思われる。
*34:『鎌倉遺文』第40巻31350号。
*35:「執達如レ件」については、執達件の如し(しったつくだんのごとし)とは - コトバンク 参照。破損等による欠字があるが、書状の末尾と思われるので、ここは書き止め文言の類であろう。
*36:「凶害」は「人を殺す事」の意(→ 凶害/兇害(キョウガイ)とは - コトバンク/凶害・兇害(きょうがい)とは - コトバンク)であり、この場合は貞重が「凶害」された事と解釈している。
*37:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.161 (五九〇号)。『鎌倉遺文』第41巻31745号。
*38:注3前掲小泉氏論文 P.717・728・729。
*39:『大日本古文書』家わけ第十九 醍醐寺文書之十三 P.234(三〇五二号)。
*40:注3前掲小泉氏論文 P.729。