長井高広
長井 高広(ながい たかひろ、旧字:長井髙廣、1305年頃?~没年不詳(1352年以後)) は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての人物、御家人。長井氏の庶流、六波羅評定衆家(泰重流)の当主。 官途は左近大夫将監、縫殿頭。法名は高阿(こうあ)か。
はじめに
長井貞重の嫡男
▲【図A】『尊卑分脈』より長井氏六波羅評定衆家(泰重流)の系図(一部抜粋)
上に示した『尊卑分脈』の系図には、長井貞重の子として掲載される。
父・貞重については、文永9(1272)年生まれと判明しているので、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、高広は早くとも1292年頃の生まれと考えるべきであろう。
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兄弟・長井勝深について
元亨3年12月21日(1324年1月18日)、長井静瑜(長井泰茂の子)が亡くなり、正中3(1326=嘉暦元)年には同じく貞重の子である勝深(しょうしん)が東大寺領美濃茜部荘の地頭職を継いだという*1。その典拠である、元徳4(1332=元弘2)年4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」の文中に「…自嘉暦元年、申付縫殿頭子息勝深律師之間、…」*2とあり、のちに応永5(1398)年6月22日付で仏子(=僧*3)・隆宥が出した「伝法潅頂職衆請定案」にも「……勝深僧都入壇 嘉暦四〔=1329〕年丶丶云々、……左衛門督僧都勝深 長井縫殿頭子 丶丶丶丶〔経乗法印 か〕猶子……」*4も書かれているので、『常楽記』との照合を以って「長井縫殿頭」=貞重で良いだろう*5。
従って、「左衛門督僧都 勝深」は高広の兄弟ということになるが、同じく『常楽記』によると、貞和4(1348)年3月4日に腫れ物が原因で45歳(数え年)で亡くなったという*6。逆算すると1304年生まれ。
史料における長井高広
本節では、高広の史料上における登場箇所を紹介する。
・8月25日条:「廿五日。万里小路大納言宣房卿、侍従中納言公明卿、宰相成資〔成輔カ〕卿、別当右衛門督実世卿、以上四人、被召捕之。於宣房被預因幡左近大夫将監。……」
同年の元弘の変(倒幕運動)に2人の息子(藤房・季房)が関与したとして召し捕られた、万里小路宣房*8を「因幡左近大夫将監」が預かっており、高広に比定されている*9。通称名は父親が「因幡守」で、「左近大夫将監」となっている者を表すものであるが、ここでの「因幡」は、父・貞重が国守に任官しなかったためか、曽祖父・泰重または祖父・頼重の最終官途にちなんで付けられたものであろう。
・8月27日条:「…被向長井左近大夫将□〔監〕・加賀前司於西坂下…」
元弘の変に伴う、六波羅の比叡山攻めで西坂下方面の攻撃を指揮したこの2名は各々、長井高広・三善町野信宗に比定されている*10。
●『神明鏡』元弘元年10月13日条*11:
新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入らせ給り。先帝の御方の人々をは皆召取奉り、大名共に預らる。一宮中務卿の親王をは、佐々木の判官時信、好法院二品親王をは、長井左近大夫将監高広預り申。万里小路中納言藤房、六條少将忠顕、二人をは主上近侍奉るべしとて、六波羅に置る。
●『太平記』巻3「主上御没落笠置事」:「…妙法院二品親王をば長井左近大夫将監高広…」*12
●『太平記』巻4「一宮並妙法院二品親王御事」:「三月八日……同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。…」*13
元弘の変の後処理として、好法院二品親王(=後醍醐天皇の皇子・尊澄法親王=のちの宗良親王)を長井高広が預かり、翌年3月に配流先の讃岐国へ移送された際にも高広が護衛に付いたと伝える*14。
● 建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」:「長井左近大夫将監 高廣」*15
鎌倉幕府滅亡後に発足した建武新政下で、雑訴決断所の寄人三番の一人。
同年9月26日付の書状2点において雑訴決断所のメンバーとして書かれている「左近将監大江朝臣」も、次の史料との照合からして高広に比定される*16。
● 建武2(1335)年9月29日付「雑訴決断所牒」(『大徳寺文書』)の発給者「左近将監大江朝臣」の花押*17
後に出された複数の書状にもこの花押と同じ形のものが据えられているが、大江姓の人物であることを裏付けるものである。関連史料によって高広に比定されることは後述参照。
● 延元元(1336=建武3)年4月「武者所結番交名」(『建武記』所収)の三番:同族の「長井大膳権大夫広秀」(長井広秀)に次いで「長井因幡左近大夫将監 高廣」*18。
*「因幡」の部分は、異本によって「周防」とするものもあるというが、「因幡」が正しいだろう(前述参照)。父・貞重の最終官途は縫殿頭であり、周防守に任官した経歴はない。
● 康永3(1344)年3月21日付引付番文(『結城文書』)の三番:「長井縫殿頭」*20
● 康永3年11月21日付「長井高広奉加状」(『勝尾寺文書』)の発給者「縫殿頭」の花押*21
同年に「縫殿頭」を称することから大江姓長井氏であることは確実で、花押の一致から、建武2年書状(前述参照)の「左近将監大江朝臣」が昇進したことが分かる。
● 貞和4(1348)年8月11日付「東寺具書案」(『東寺百合文書』):「長井縫殿頭 高廣」*22。
弟・勝深の病死から5ヶ月後の史料となる。「高広」の実名が明記されており、以上に掲げたものが長井高広で確定する。尚、高広の縫殿頭任官について、上図『尊卑分脈』では記載が見られないが、その成立時期も考慮すれば「左近将監」止まりでも不思議ではないと思う。
● 貞和5(1349)年6月9日付「室町幕府御教書」(『長門忌宮神社文書』)の宛所「長井縫殿頭」
この文書は、長門二宮の造営が長門国守護・厚東入道(武実 [法名:崇西] カ)に命じてきたが全く行われていないため、武蔵守高師直が「縫殿頭」に対し厳密の沙汰を命じたものである。
この「縫殿頭」について『大日本史料』などでは重継とする*23が、こちらも正しくは高広*24。このことは前述の史料に加え、後述史料での花押とも一致することから裏付けられる。
尚、『長門国守護職次第』には記載が見られない*25が、この史料から、足利直冬が長門探題に補任されたこの頃の長門守護には高広が就いていたと考えられている*26(観応の擾乱時まで*27)。
● 観応元(1350)年3月12日付「室町幕府引付頭人奉書案」(『広橋家文書』)の差出人*28
幕府の引付頭人であった高広、「門真左衛門入道寂意」に対し、雀岐庄公文職名目畠等の返付を命令。
● 観応元年4月12日付「引付頭人奉書」(『三浦和田文書』)の差出人「縫殿頭」の花押*29
★この間に出家か(長井縫殿頭入道高阿)。
● 文和元(1352)年3月4日付「室町幕府引付頭人奉書」(『八坂神社文書』)の発給者「沙弥」の花押*30
● 文和元年11月18日付「室町幕府引付頭人奉書」(『東寺百合文書』)2通*31の発給者「沙弥」の署名と花押
「沙弥」とは「剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者」の意であり*32、花押の一致により観応元年の「縫殿頭」がこの時までに出家していることが分かる。11月18日付奉書について宇都宮蓮智(貞泰)とする説もあったが、以上史料群との花押の一致などから、出家後の長井高広であると分かる。尚、法名については「東寺光明真言講過去帳第二」の「沙弥高阿」「(同裏書)長井縫殿頭入道」の記載から「高阿(こうあ)」ではないかと考えられている*33。
以後、史料上で活動は確認できず、没年も不明である。
生年と烏帽子親の推定
紺戸淳氏は、長井氏では代々北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んできた(六波羅評定衆家では、泰重―頼重―貞重)として、高広についても、最後の得宗で第14代執権となった北条高時の偏諱を受けたと推定されている*34。
この裏付けとして、前節での官職の変化に着目してみたい。そして、各官職にはそれに相応の年齢で任官するものであり、次のように推定可能である。
● ~元弘元(1331)年:左近大夫将監(従六位上→従五位下)*35→ 20代半ば程度
● 延元元(1336)年~康永3(1344)年:縫殿頭(従五位下相当・長官級)→ 33~36歳?
逆算すると、高広の生年は勝深のそれ(=1304年、前述参照)とさほど変わらない時期となる。紺戸氏の論考に従うと、元服は通常10~15歳ほどで行われたので、北条高時が得宗の地位にあった期間 (1311~1333年、うち14代執権在職は1316~1326年) 内の元服であることが確実となる。よって高時を烏帽子親として元服し、「高」の偏諱を受けたと推測される。尚、もう片方の字には歴代当主の通字「重」ではなく、更に遡った祖先・長井時広(大江広元の子)に由来するものであろうか、「広」を用いているが、この頃においては珍しくもない現象である。
脚注
*1:長井静瑜(ながい せいゆ)とは - コトバンク。小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.717。
*2:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.161 (五九〇号)。『鎌倉遺文』第41巻31745号。
*3:仏子(ブッシ)とは - コトバンク より。
*4:『大日本古文書』家わけ第十九 醍醐寺文書之十三 P.234(三〇五二号)。『徳禅寺文書』の系図では経乗法印の子として記載されており(→『大日本史料』6-13 P.81)、その猶子であったとみられる。
*5:注1前掲小泉氏論文 P.729 および『常楽記』元徳3年2月12日条(→ 長井貞重 - Henkipedia【史料A】)を参照のこと。
*7:注1前掲小泉氏論文 P.726。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*8:万里小路宣房 - Wikipedia 参照。
*9:下沢敦「『太平記』の記述に見る京都篝屋」(所収:『共栄学園短期大学研究紀要』第18号、2002年)P.189~190、および P.180 注(69)。
*10:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.417 註(10)。
*12:「太平記」主上御没落笠置事(その8) : Santa Lab's Blog。
*13:「太平記」一宮並妙法院二品親王の御事(その2) : Santa Lab's Blog。
*14:注9前掲下沢氏論文 P.183 注(7)。
*17:東京大学史料編纂所 編『花押かがみ 第6冊 南北朝時代2』(吉川弘文館、2004年)P.170 No.3611「長井高広」の項。
*19:縫殿の頭(ぬいどののかみ)とは - コトバンク より。
*20:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。注1前掲小泉氏論文 P.733。
*21:注17同箇所。
*23:『大日本史料』6-12 P.675。小林定市「知られぎる長和庄地頭(寄稿)」(所収:『山城志』第10集、備陽史探報の会、1991年)P.34。『南北朝遺文 中国四国編』1713号。
*24:岩元修一「南北朝期防長守護覚書(三)」(所収:『宇部工業高等専門学校研究報告』第60号、2014年)注(20)。貞和五年の防長守護1: 資料の声を聴く。
*25:田村哲夫「長門守護代の研究」(所収:『山口県文書館研究紀要 1』、1972年 / → 長門守護代の研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。
*26:貞和五年の防長守護1: 資料の声を聴く および 貞和五年の防長守護2: 資料の声を聴く。
*27:長井氏 - Wikipedia #長門長井氏 より。
*28:『兵庫県史 史料編 中世8』「広橋家文書」14。駒見敬祐「南北朝期鎌倉府体制下の犬懸上杉氏 ー上杉朝房の動向を中心にー」(所収:『文学研究論集』第39号、明治大学大学院、2013年)P.100。田中誠「室町幕府奉行人在職考証稿(2)―貞和元年(1345)~文和元年(1352)― 付奉行人氏族研究(安富氏)」(所収:『立命館文学』653、2017年)P.21(P.110) 表No.633。
*29:注17同箇所。佐藤進一「室町幕府開創期の官制体系」(所収:『中世の法と国家』、東京大学出版会、1960年)。
*30:注17同箇所。
*31:レ函/52/1/:室町幕府引付頭人奉書|文書詳細|東寺百合文書。レ函/52/2/:室町幕府引付頭人奉書|文書詳細|東寺百合文書(または 『大日本古文書』家わけ第十 東寺文書之十三 P.131(二号))。
*32:沙弥(しゃみ)とは - コトバンク 参照。
*33:『東京大学史料編纂所報』第38号(2003年)刊行物紹介 ー 大日本古文書家わけ第十 東寺文書之十三 より。
*34:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。
*35:左近の大夫将監は、左近衛将監(従六位上相当)で五位に叙せられた者。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク/左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク より。