Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千葉時胤

千葉 時胤(ちば ときたね、1218年~1241年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。千葉氏第7代当主。通称は千葉介。子に千葉頼胤

 

時胤の系譜について

時胤の系譜については、各系図によって異なっている。

『神代本千葉系図』『徳島本千葉系図』『平朝臣徳嶋系図:胤綱―時胤

伊豆山権現『般若院系図:胤綱―時胤(泰胤兄)

『千葉大系図』:成胤―時胤(胤綱・泰胤弟)

※『千葉大系図』でも他系図に同じく「成胤―胤綱―時胤」とはするが、時胤の傍注に「実成胤之三男也」と記して、成胤の3男とする。

 

上記古系図における「胤綱―時胤」の父子関係は、『吾妻鏡』にある胤綱の享年21(数え年、以下同様)*1から算出すると、時胤が生まれた建保6(1218)年当時11歳となることから否定され、江戸時代の『千葉大系図』編纂の際に兄弟として改められた。またその際、父となる成胤が建保6年に亡くなったのに対し、同年に生まれた時胤の後(次)に泰胤が生まれるのはおかしいとして胤綱、泰胤、時胤の兄弟順とされた。

 

「千葉介代々御先祖次第」(本土寺過去帳 所収)

「第四 胤綱 卅一歳、安貞二年戊午五月廿八日」

……『平朝臣徳嶋系図』に掲載の享年(31)、および『吾妻鏡』での没年月日に一致。逆算すると建久9(1198)年生まれ。

ja.wikipedia.org

ところが、後にこの史料が発見されたことで『吾妻鏡』での胤綱の享年21が誤りであることが判明し、それを信用した『千葉大系図』のように修正を行う必要が無くなったため、今日では「胤綱―時胤(泰胤兄)」が正しいと結論付けられている。

(参考ページ)⇒ 千葉時胤 - Wikipedia #時胤の系譜の問題

ja.wikipedia.org

 

 [参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の生没年

 *( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。

 ● 千葉常胤:1118年~1201年(84)

 …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より

 ● 千葉胤正:1136年~1202年(67)

 …『本土寺過去帳』より

 ● 千葉成胤:1155年~1218年

 …生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より

 ● 千葉胤綱:1198年~1228年(31)

 …『本土寺過去帳』より(前述参照)

 

 

烏帽子親の推定

生没年については、『千葉大系図』に、建保6(1218)年8月11日に生まれ、仁治2(1241)年9月17日24歳で亡くなったという記載が見られ*2、これ自体に矛盾はない。前節で同系図が系譜の面で誤解のあったことを述べたが、この生没年に関しては父・胤綱との年齢差や史料での登場時期と辻褄が合うことから十分採用に値すると思う。

また、同系図には仁治2年に嫡男の頼胤が3歳と幼少でありながら家督を継いだとあり、これも時胤の早世を裏付ける根拠になり得る。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

紺戸淳は、『続群書類従』所収「千葉系図」に従うと1200年生まれとなる*3ため、1224年まで2代執権の座にあった北条義*4からの一字拝領を想定されている*5。しかし、この場合父・胤綱より先に生まれたことになって矛盾するから、記載の享年42(没年は『千葉大系図』と一致)は数字が逆転してしまった誤記であろう。

但し、千葉氏通字「胤」に対する「時」が烏帽子親からの一字拝領と考えられ、紺戸氏が述べられる通り、北条氏の通字を賜ったと考えて良いだろう。前述の生年に従って紺戸氏の手法を用いると、元服の年次はおおよそ1227~1232年と推定可能*6で、「」の偏諱を与えた烏帽子親は当時の3代執権・北条泰*7と推測される。

吾妻鏡』では、千葉胤綱死後の寛喜3(1231)年10月19日条に「千葉介」が登場し、これが史料上での時胤の初出とされる*8。この時までに元服を済ませたと考えて良いだろう。

 

千葉介時胤(外部リンク)などでご紹介の通り、この頃に「千葉介」等と書かれた史料は少なからず残っているが、それが時胤であることは次の史料によって裏付けられる。

 

嘉禎4(1238)年3月15日「関東御教書写」(『常陸香取文書』)*9

依香取造営事、千葉介時胤被免除京上御共畢、然者、
於相随彼役仁者、早令帰国、至在国地頭者、御下向之時不参向、
而守先例、可専造営之状、依仰執達如件、

 嘉禎四年三月十五日  左京権大夫(花押)=執権・北条泰時
            修理権大夫(花押)連署北条時房
下総国地頭中

この史料の中で、香取社の造営が終わっていないことを理由に、時胤が将軍・九条頼経の上洛への供奉を「免除」されたことが述べられている。

 

このほか、元徳2(1330)年6月24日付「下総香取社造営次第」(『香取神宮文書』)*10に「……被下宣旨於嘉禎二年丙申六月日千葉介時胤宝治三年己酉三月十日御遷宮……」とあり、香取社遷宮の宣旨が下された嘉禎2(1236)年6月から宝治3(1249)年3月10日までの遷宮に際し、千葉時胤がその責任者であったことが記録されている(途中で亡くなった後は、弟の泰胤や、幼少の嫡男・頼胤を補佐する家老たちが代行か)

 

参考ページ

 千葉介時胤

 千葉時胤 - Wikipedia

 

脚注

*1:『吾妻鏡』安貞2年5月28日条

*2:『大日本史料』5-11 P.612~613

*3:千葉頼胤 - Henkipedia【図A】参照。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.18。

*6:元服の年齢を数え10~15歳と仮定した場合。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.185「時胤 千葉」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*9:『鎌倉遺文』第7巻5218号。

*10:『鎌倉遺文』第40巻31078号。