Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏高直

北条 高直(ほうじょう たかなお、1316年頃?~1334年)は、鎌倉時代末期の武将・御家人

大仏流北条維貞の子で、大仏 高直(おさらぎ ー)とも呼ばれる。 

 

 

元弘の変における高直

"陸奥右馬権助"高直

【表A】『太平記』巻6「関東大勢上洛事」*1における幕府軍の構成メンバー

<相摸入道(=得宗北条高時)一族>

阿曾弾正少弼名越遠江入道大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助

<外様>

千葉大介・宇都宮三河三河権守貞宗?)小山判官・武田伊豆三郎(信武?)・小笠原彦五郎貞宗・土岐伯耆入道(頼貞)・葦名判官(盛貞)・三浦若狭五郎(時明?)・千田太郎(千葉胤貞)・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守(大原時重?)・結城七郎左衛門尉(朝高)・小田常陸前司(時知?)長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉(師宗?)・長江弥六左衛門尉(政綱?)・長沼駿河駿河権守宗親?)・渋谷遠江遠江権守重光?)河越三河入道工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司(祐光)・同大和入道(祐宗)安藤藤内左衛門尉宇佐美摂津前司二階堂出羽入道・同下野判官(二階堂高元)・同常陸(二階堂宗元?)・安保左衛門入道(道堪)・南部次郎・山城四郎左衛門尉、他132人

307,500余騎

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<その他>

河野九郎(通盛)ら四国勢:大船300余艘

厚東入道(武実)・大内介(重弘?)・安芸熊谷(直経?)ら周防・長門勢:兵船200余艘

甲斐・信濃源氏(武田・小笠原氏などか)7,000余騎

江馬越前守・淡河右京亮(時治か)ら率いる北陸道7箇国勢:30,000余騎

正慶元/元弘2(1332)年、護良親王楠木正成らの反幕府活動が畿内で活発化したとの報告を受けて、幕府側は大軍を畿内へと向かわせた(9月20日鎌倉発、10月8日先陣が京着)。上記【表A】はその軍勢の構成をまとめたものだが、やがて翌「元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へ」と向かわせた。

 

●【表B】『太平記』巻6「関東大勢上洛事」(後半部) *2に基づく幕府軍の構成表

吉野方面 大将軍 二階堂出羽入道道蘊
27,000余騎
赤坂方面 大将軍 阿曾弾正少弼
80,000余騎
金剛山方面 大将軍 陸奥右馬助(搦手大将)
侍大将 長崎悪四郎左衛門尉
200,000騎


この【表B】を見ると、「諸国の軍勢八十万騎を三手に分」けたはずが、合計30万余騎にしか満たず矛盾を生じているが、堀内和明は「複数の作者による認識の相違や伝聞、補筆・改訂等による混乱」があったためか、結果的に「寄せ手軍勢の数値そのものの誇張」となってしまい、「軍勢や日付に関する『太平記』の記事に信用はおけない」とする*3

 

但し堀内氏は、内容の全てを否定してはおらず、上赤坂(城主:平野将監入道)攻めを河内からの大手、金剛山千早城城主=楠木正成攻めを大和からの搦め手とし、各々の大将に阿曽弾正少弼陸奥右馬助を配置する点では次の史料に合致するとしている*4

 

●【表C】『楠木合戦注文』に基づく幕府軍の構成メンバー表

河内道

(大手)

大将軍 遠江弾正少弼治時
軍奉行 長崎四郎左衛門尉高貞

大和路

(搦手)

大将軍 陸奥右馬助
軍奉行 工藤次郎右衛門尉高景
大番衆 新田一族 里見一族 豊島一族 平賀武蔵二郎跡
飽間一族 園田淡入道跡 綿貫三郎入道跡
沼田新別当跡 伴田左衛門入道跡 白井太郎
神澤一族 綿貫二郎左衛門入道跡 藤田一族
武二郎太郎跡
紀伊 大将軍 名越遠江入道
軍奉行 安東藤内左衛門入道円光
大番衆 佐貫一族 江戸一族 大胡一族 高山一族
足利蔵人二郎跡 山名伊豆入道跡 寺尾入道跡
和田五郎跡 山上太郎跡 一宮検校跡
嘉賀二郎太郎跡 伊野一族 岡本介跡 重原一族
小串入道跡 連一族 小野里兵衛尉跡 多桐宗次跡
瀬下太郎跡 高田庄司跡 伊南一族 荒巻二郎跡

(表は http://chibasi.net/soryo14.htm より拝借) 

 

【表C】に出てくるメンバーは【表A】・【表B】とも少なからず一致しており、『太平記』が元々軍記物語であることも考えると、以上3つは『楠木合戦注文』に基づいた史実を伝えるものとみなして問題ないだろう。

 

尚、【表C】での各軍勢の大将軍は次の史料によって人物の比定が可能である。

【史料D】『保暦間記』より

……同(元弘)三年葵酉春、此事ヲ聞テ、関東ヨリ、弾正少弼治時 時頼遠江守随時カ子也 高時為子陸奥守右馬権助高直 維貞遠江入道宗教法師 朝時孫 教時子、彼等其外一族大将軍トシテ、関東ニサルヘキ侍多分差上ス。其勢五万騎上洛シテ、彼城ヲ責サス。……

河内道の軍勢を率いる大手の大将は、北条高時の猶子でもあった阿曽治時。【表C】での通称は、父・随時が遠江守で「弾正少弼」となっていたことを表すもので問題ない。

紀伊方面への軍勢を率いたのは名越宗教。文永9(1272)年の二月騒動での死亡説も伝わるが、【史料D】の通り生き永らえた宗教である可能性が高いことは次の記事をご参照いただきたい。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

そして、もう1人の大将軍として高直の掲載がある。「維貞子」「陸奥守右馬権助」と記す通り、通称名は父・維貞陸奥守で「右馬権助」となっていたことを表すものである。A~Cの表とは異なり権官で表記されているが、次兄の大仏家時が「陸奥右馬助」と呼ばれていた可能性が高く*5、【史料D】の通り「(陸奥)右馬権助」が高直の正確な官職であったと推測される。

一方、A~Cにおける「陸奥右馬助」が、家時であった可能性も否定はできないが、わざわざ実名を記す【史料D】が誤っているとも考え難く、A・Bが『太平記』であることも考えると、右馬権助高直の誤記とみなして良いと思う。

 

生年と烏帽子親の推定

よって【史料D】当時、高直右馬権助正六位下相当・権官であったことになり、叙爵の年齢を迎えていなかったと考えられるから、10代の青年であったと思われる。元徳元(1329)年に評定衆となった次兄・家時が18歳であったというから、当時の高直はこれより年少となる。

それを踏まえて「直」の名に着目すると、「直」が祖先・朝直に由来するものとみられるので、一方の「」が当時の得宗であった北条時から偏諱を賜ったものと推測される。恐らく高時が執権辞職・出家した正中3(1326=嘉暦元)年頃に元服を遂げたのではないか。1316年頃の生まれと推定する。

 

高直の刑死

河内・金剛山を攻撃していた治時高直長崎高貞らだったが、やがて足利高氏(のちの尊氏)らの裏切りもあって六波羅探題が滅亡したとの知らせを受け、城を落とせぬまま奈良へと撤退。興福寺に立て籠もってしばらく抵抗の姿勢を見せるも、鎌倉までもが攻め落とされたことを知った6月初旬に出家して降伏した。

その後は助命嘆願が受け入れられたのか、幽閉されるだけの寛大な処置が採られたが、翌建武元(1334)年3月9日、北条氏得宗被官)の残党である本間氏・渋谷氏などが鎌倉奪回を狙って失敗するという事件が起きた(『鎌倉大日記』・『梅松論』*6ことを受け、高直らは京都東山の阿弥陀ヶ峰にて処刑された。このことを伝える史料は複数残っており*7、次の史料はその一つである。

【史料E】『保暦間記』より*8

……大将軍治時高直長崎四郎左衛門尉 円喜子高資弟 等、南都ニシテ出家ス。……(中略)……建武元年四月、故高時入道ノ始末ヲヤ思ケン、高時ノ一族少々、並ニ本国ノ者共、其外同意ノ族有テ、鎌倉ヘ打寄、左馬頭直義ニ対テ合戦ヲ致。直義防戦テ、無程追散畢。此事京都ヘ聞ヘテ、カクノ者モアラハ、不思議ノ事モ有ナントテ、治時高直長崎四郎左衛門、去年出家シテ大衣著〔着カ〕タリシヲ召出シテ、東山阿弥陀カ峯ニシテ被誅畢。此外、高時一族、或ハ降参、或ハ所々ニ隠居シタリケルヲ、皆取出テ、同日首ヲ被刎ケリ、……

同内容を描く『太平記』巻11「金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事」*9では「大仏右馬助直」とするが、巻10「大仏貞直並金沢貞将討死事」で「大仏陸奥守貞直」が戦死したことが描かれており*10、更に巻6で貞直と「陸奥右馬助」は別人とされていることは【表A】に示した通りであるから、【史料E】と照らし合わせも、単に直とすべきところの誤記と判断される*11

 

ところで、『正宗寺本 北条系図』には高直の掲載はないが、同じく維貞の子の大仏貞宗に「右馬介〔ママ〕入道」・「向金剛山建武元誅金剛山に向かい建武元年に誅された)」 の注記が見られるが、高直の三兄高宣家時の弟)とされ、同じく阿弥陀ヶ峰で刑死したと考えられている*12。また、『蓮華寺過去帳』の「建武元年三月二十一日夜半、阿弥陀峯被誅人々」に含まれる「佐助〔佐介カ〕式部大夫 同右馬助*13を各々高直貞宗に比定する説もある*14

 

参考ページ

 北条高直 - Wikipedia

 大仏高直(おさらぎ たかなお)とは - コトバンク

大仏流朝直系宣時派北条氏 ー 北条高直

 南北朝列伝 ― 大仏高直 

 金剛山を攻めた鎌倉勢はどうした 

 

脚注