京極高氏
佐々木 高氏(ささき たかうじ、1296年~1373年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、御家人、守護大名。
父・宗氏を介して母方の叔父・貞宗の京極流惣領の座を継ぎ、京極高氏(きょうごく ー)とも呼ばれる。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
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「高氏」の実名は『尊卑分脈』などの系図類で見かけることがほとんどで、実際の他の史料では、佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)や佐々木道誉(どうよ)等の名で書かれるものが多く、今日では出家後の法名の方が知られている。尚、本人は「導誉(佐々木導誉)」で署名しており、本来はこちらが正しいのであろうが、他の史料では「道誉」「入道々誉(=入道道誉)」と書かれるものがほとんどである。
『大日本史料』6-38 P.70~ には高氏死去に関する多数の史料が掲載されている。以下その一部をピックアップしてご紹介しよう。
●『花営三代記』応安6(1373)年12月27日条:「山門神輿造替沙汰被執行之。惣奉行人高秀。親父道誉去八月廿五日他界之間。…(以下略)」*1
●『常楽記』同年8月25日条:「佐々木佐渡大夫判官入道道誉帰寂於江州」*2
紺戸淳氏の論文*3でも紹介されているこの2点が正確な命日を伝えるものと考えて良いと思われる。
次に掲げるのは公家の日記を中心に、没年齢(享年)が記録されているものである。日にちにずれがあるが、単純に数日遅らせて書かれただけに過ぎないだろう。
● 『愚管記』応安6年8月27日条:「佐渡判官入道導誉他界すと云々、年七十八と云々、前代以来の大名なり」*4
● 『後愚昧記』応安6年8月27日条:「廿七日、…(略)……佐々木佐渡大夫判官入道々誉此両三日死去之由、……(略)……導誉生年七十八歳云々、…」
これらの史料により逆算すると永仁4(1296)年生まれとなる。
尚、別説として、『諸家系図纂』「佐々木系図」には「…応安六八廿二卒六十八才…」と書かれている*5(→逆算すると徳治元(1306)年生まれ)が、上に示した通り複数の史料で享年を78歳と伝えることから、単純に「六」は「七」の誤記なのであろう。
北条貞時の嫡男・成寿が元服して「高時」と名乗ったのは延慶2(1309)年1月21日であり*6、応長元(1311)年10月26日の貞時の死に伴って得宗家家督の座を継いだ。1296年生まれ説を採用すると、この期間の高氏は14~16歳と元服の適齢期である。新得宗・北条高時の加冠により元服し、「高」の偏諱を賜ったと考えて良いだろう(1306年生まれとしても、元服当時の得宗が高時であることは確実で、1316年以後であれば高時執権期間での元服となる)*7。
高時には相伴衆として仕え、剃髪して導誉を名乗ったのも、正中3(1326=嘉暦元)年3月の高時の執権辞職および出家の時であった(『尊卑分脈』*8)。
その他、活動経歴などについては次の各ページを参照のこと。
● 佐渡大夫判官高氏(佐々木導誉): 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)
脚注
*2:帰寂とは僧侶が死ぬこと(→ 帰寂(キジャク)とは - コトバンク)、江州は近江国の別称である(→ 江州(ゴウシュウ)とは - コトバンク)。
*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.17。
*4: 南北朝列伝 ー さ2「佐々木道誉」の項 より。原文は 愚管記. 第16,17 - 国立国会図書館デジタルコレクション を参照のこと。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*7:大山眞一「中世武士の生死観 (7) ―『太平記』における「死にざま」と「生きざま」の諸相―」(所収:『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第10号、2009年)P.348。注3紺戸氏論文 P.15系図・P.18。後者P.18では1306年生まれで10~15歳の元服とした場合、1315~1320年になると推定。