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アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

後藤基頼

後藤 基頼(ごとう もとより、1238年~1301年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。 

父は後藤基政(もとまさ)、母は葛西清親の娘と伝わる。弟に後藤基広(次郎)後藤基長(十郎)ら、息子に後藤基宗後藤基胤がいる。通称および官途は 太郎、左衛門尉壱岐新左衛門尉・壱岐太郎左衛門尉)筑後守。法名寂基(じゃっき)

 

 

はじめに:基頼の経歴について 

細川重男がまとめた「鎌倉政権上級職員表」*1による経歴は次の通りである。

 

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№110 後藤基頼(父:後藤基政、母:葛西清親女)
01:暦仁1(1238).   生(1)
02:年月日未詳      左衛門尉
03:文永6(1269).04.27 引付衆(32)
04:文永7(1270).08.  上洛(為在京)(33)
05:文永8(1271).07.27 蒙使宣旨(34)
06:文永9(1272).11.27 叙留(35)
07:建治3(1277).09.13 筑後守(40)
08:弘安7(1284).04.  出家(法名寂基)(47)
09:正安3(1301).11.11 没(64)
10:年月日未詳      六波羅引付頭人
 [典拠]
父:分脈
母:分脈。
01:没年齢より逆算。
02:関評・文永6年条
03:関評・文永6年条。
04:関評・文永7年条
05:開評・文永7年条。
06:開評・文永7年条。
07:関評・文永7年条。
08:分脈。『秀郷流系図』「後藤」(続類従・系図部)。関評・文永7年条、法名「舜基」とす。
09:関評・文永7年条。
10:分脈。

 

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(関連記事)

kotobank.jp

 

 

基頼・基宗父子の烏帽子親

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▲後藤氏略系図https://office-morioka.com/myoji/genealogy/chusei/goto.html より拝借)
 

後藤氏は、後藤実基の養子・基清西行こと佐藤義清の甥)以降、「(もと)」を通字とした家柄である。 

紺戸淳の論考*2に従って、上の表で示した生年から元服の年次を推定すると1247~1252年となるが、『吾妻鏡』では宝治2(1248)年正月3日条に「壱岐新左衛門尉」として初めて現れるのが確認できる*3ので、1247年には元服と左衛門尉任官を済ませていたのではないかと思われる。この当時の将軍は5代・九条(在職:1244~1252)、執権は5代・北条時(在職:1246-1256)であり、いずれかの偏諱である「」字の使用を許されていることが窺える。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

基頼はのちに、宇都宮頼業(横田頼業)の娘との間に嫡男・(もとむね)をもうけているが、中川博夫の推定によれば、弘長2(1262)年~文永9(1272)年の生まれとされる*4元服当時の将軍は7代・源惟康(のちの惟康親王,在職:1266~1289)、執権は8代・北条時宗(在職:1268~1284)に間違いなく、「」字は、宗尊親王ではなく時からの偏諱と考えて問題ないと思われる。時宗が亡くなる弘安7(1284)年までには元服を済ませたのだろう。 

従って、「基―基」は、得宗「時―時」と烏帽子親子関係を結んだと考えるのが自然であろう*5。ちなみに次の系図で見ると分かる通り、基頼は佐藤公清から数えて10代目にあたり*6、時偏諱を受けたとされる尾藤(図では景*7と同じ代数である。実際に『吾妻鏡』では基頼と同時期に頼景と思しき「尾藤次郎兵衛尉」なる人物の活動が確認できる*8ので、これも1つ参考になると思われる。

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ここで、細川氏の研究*9に従って、これまでの後藤氏の活動を振り返ってみよう。

始祖である後藤基清(もときよ)は、承久の乱で京(後鳥羽上皇)方に属して刑死。息子の基綱(もとつな)は幕府方に属して生き残り、初代評定衆の1人になる等しばらくは鎌倉政権の有力者、および4代将軍・九条頼経の側近としての地位を保ったが、寛元4(1246)年の宮騒動(名越光時の陰謀計画)に関与したため失脚した(のち1252年には引付衆として復帰、1256年に死去)

吾妻鏡』で見る限り、基綱の子・基政(もとまさ)も騒動後は活動を停止させられていたように見受けられるが、父に先立ち建長2(1250)年末からは再開している*10。前述の通り基頼の登場は1248年初頭であるから、騒動の翌年である1247年には基政も復帰を許されていたのではないかと思う。その際の条件として、執権・得宗の時頼が基政の嫡男の烏帽子親を務め、協調姿勢の確認を行ったのではないだろうか時頼は烏帽子親子関係を利用して後藤氏に対する統制を図ったのではないかと思われる。基政の代からは六波羅評定衆を務めるようになり、やがて活動の拠点が六波羅(京都)に移っていくことになるが、基頼の嫡子・基宗の元服に際しても、近い時期に「二月騒動*」が起きていることから、時宗が基宗の加冠を務めることで、得宗への協調姿勢の確認を行った可能性が考えられよう。 

*二月騒動…文永9(1272)年2月、六波羅探題南方であった庶兄の北条時輔に謀反の意志ありとして、執権・北条時宗が同探題北方・赤橋義宗に命じてこれを討たせた事件。この頃基頼が在京であったことは冒頭の表で示した通りで、時輔方につけば討伐の対象になり得ただろう。幸いそうはならなかったようだが、過去のこともあってか、後藤氏も得宗にとっては警戒すべき相手だったのかもしれない。基政・基頼などは引付衆を務めた後に上洛して六波羅評定衆となっているので、若年であった基頼の嫡子(基宗)も当初は鎌倉に居たと考えて良いだろう。

 

 

吾妻鏡』における基頼前半期の活動

冒頭の表に示した通り、引付衆に加えられて以降、北条時宗の死に伴い出家するまでの後半期の活動は『関東評定衆』によって知ることができる。本節では『吾妻鏡』に拠って、それ以前の活動についてまとめてみたいと思う。

月日 内容
宝治2(1248) 1.3 垸飯での供奉人六位に「壱岐新左衛門尉」。
建長3(1251) 10.2 5代将軍・九条頼嗣とその母(大宮殿)の執権・北条時頼邸宿泊に際し、頼嗣のお供をする。
建長4(1252) 4.14 新将軍(6代)・宗尊親王鶴岡八幡宮初参詣でのいわゆるSPの1人に「壱岐新左衛門尉基頼」(実名の初見)。
8.1 新将軍・宗尊の鶴岡八幡宮拝賀(中止)での供奉人のリスト中「直垂着」に「壱岐新左衛門尉」。
8.14 翌15日の鶴岡八幡宮放生会での供奉人。
建長6(1254) 1.22 将軍・宗尊の鶴岡八幡宮参詣に父・基政と同行。基頼は「御車」の左右につきSP役。
康元元(1256) 6.29 父と共に鶴岡八幡宮放生会での供奉人。
7.17 将軍・宗尊の山内最明寺参詣に同行、「御後供奉」(将軍の後ろでのお供)22人の一人。
8.15 鶴岡八幡宮放生会において「御車」の1人。
8.23 将軍・宗尊の、新陸奥守・北条政村の常葉邸出御に際し、供奉人の1人。
正嘉元(1257) 8.15 鶴岡八幡宮放生会において先陣の随兵の1人。
12.2 問見参結番(将軍への取次役)の五番の1人。
12.3 御格子上下結番の三番の1人。
正嘉2(1258) 1.1 垸飯での「西座」の1人に「後藤壱岐新左衛門尉」。
1.2 垸飯の後の将軍・宗尊の北条時頼(道崇)邸出御に際し、供奉人五位の1人に「後藤壱岐前司基政」、同六位の1人に「壱岐新左衛門尉基頼」。
1.1 将軍・宗尊の鶴岡八幡宮参詣において「御後」五位の1人に「後藤壱岐前司基政」、同六位の1人に「壱岐新左衛門尉基頼」。
6.4 勝長寿院改修後開眼供養において後藤次郎基広(基頼の弟:『尊卑分脈』より)と共に「御馬」の十番。
6.17 来たる鶴岡八幡宮放生会での供奉人のリスト中に「後藤壱岐前司 同新左衛門尉」。
8.15 鶴岡八幡宮放生会において御後六位の1人。
文応元(1260) 1.1 垸飯に父・基政と共に出仕。同日の将軍・宗尊出御において「御後」六位の1人。
1.11 将軍・宗尊の鶴岡八幡宮参詣において「御車」の左右につきSP役。
1.2 父・基政、叔父・基隆と共に「晝番」(昼間将軍に仕える当番)の六番。
2.2 御格子上下結番の二番の1人。
4.1 前月21日に近衛宰子と結婚したばかりの将軍・宗尊の陸奥入道北条重時邸に入御(3日に実施)の際の供奉人について、「御點」(チェックリスト)から漏れた中に「後藤壱岐新左衛門尉」。
11.3 将軍・宗尊の鶴岡八幡宮参詣に父・基政と同行。基頼は「御駕」(宗尊の乗る車)の左右につきSP役。 
弘長元(1261) 8.15 鶴岡八幡宮放生会において父と「布衣」の1人。
弘長3(1263) 1.1 垸飯での「中御所御方」。父も参加。
1.7 将軍・宗尊の鶴岡八幡宮参詣にて父と「布衣」。「後藤壱岐前司基政 同大郎左衛門尉基頼」とあるにより輩行名が「太郎」と分かる。
1.23 二所詣でのお供について支障があると申し出た中に「後藤壱岐左衛門尉」。

 

 

備考

冒頭の経歴表 および『吾妻鏡』以外にも、『勘仲記』を見ると、弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会で七番の流鏑馬が行われたとき、七番手を「後藤筑後前司基頼法師、法名寂基、」、その射手を「舎弟壱岐十郎基長(=後藤基長)」が務めたとの記述が見られる*11。同年4月に出家したことと法名が「寂基」であったことが裏付けられよう。

 

脚注 

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№110-後藤基頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。同氏の著書『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末P.77~78 同前No.110にも掲載あり。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)。数え10~15歳での元服の場合。

*3:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.44「基頼 後藤」の項により、その後も「壱岐新左衛門尉基頼」「後藤壱岐新左衛門尉基頼」等と書かれる箇所が多数確認できる。

*4:中川博夫「後藤基綱・基政父子(一) -その家譜と略伝について-」(所収:『芸文研究』48号、慶應義塾大学藝文学会、1986年)P.38。

*5:注2前掲紺戸氏論文 P.15では、得宗からの一字付与の対象者として、千葉頼胤(1239年生)―宗胤父子や、1250年時頼邸にて元服した六角頼綱(『吾妻鏡』)などを挙げている。他に元服の年次が確認できるものとしては、1277年に鎌倉で時宗の加冠を受けた武田信宗(『系図綜覧』所収「甲斐信濃源氏綱要」)の例が確認できる。

*6:途中養子相続を挟むため、正確には公清―季清―康清―仲清―基清―基綱―基政―基頼と、公清から8代目にあたるが、能清の実弟・基清が実基の養子であったということは重要であって、養父よりは年少(或いは老いていてもほぼ同世代)であったと考えるのが自然と思われる。代数の少なさは親子の年齢幅の違いに起因するものであろう。

*7:注1前掲細川氏著書、P.214 注(24)。

*8:詳しくは 尾藤頼景 - Wikipedia を参照。

*9:注1前掲細川氏著書、P.57~58(第一部第二章第四節 後藤氏)。

*10:注3前掲『吾妻鏡人名索引』P.42「基政 後藤」の項。注4前掲中川氏論文 P.51。

*11:勘仲記. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション