Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

後藤基宗

後藤 基宗(ごとう もとむね、1262年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。 

父は後藤基頼、母は宇都宮頼業(横田頼業)の娘と伝わる。弟に後藤基胤、子に後藤基雄がいる。*1

 

 

北条時宗の烏帽子子

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父・基頼は暦仁元(1238)年の生まれとされる*2ので、現実的な親子の年齢差を考えれば、基宗の生年は1258年頃より後と考えるべきであろう。

同じように歴代の親子の年齢差を参考にして弘長2(1262)年~文永9(1272)年の生まれとする中川博夫の推定*3に従うと、元服当時の将軍は7代・源惟康(のちの惟康親王,在職:1266~1289年)、執権は8代・北条時宗(在職:1268~1284年)に間違いなく、「」の名は、6代将軍・宗尊親王ではなくから偏諱を受けたものと考えられる。文永9年の生まれとしても、時宗が亡くなる弘安7(1284)年には元服の適齢を迎えるので、時宗執権期間内の元服であること確実である。

 

尚、得宗からの一字拝領は父・基頼に続くものだが、上記記事にて、曽祖父にあたる基綱(もとつな)が寛元4(1246)年の宮騒動(名越光時の陰謀計画)に関与して失脚し(のち1252年には引付衆として復帰、1256年に死去)、その子・基政(もとまさ)の復帰を許す際の条件として、当時の得宗(5代執権)・北条時がその嫡男(基)の烏帽子親を務めることで協調姿勢の確認をとったことを推測した。

そして、基政の代からは六波羅評定衆を務めるようになり、やがて活動の拠点が六波羅(京都)に移っていくことになるが、基頼の嫡子であるの生誕または元服と近い時期に「二月騒動*」が起きていることから、基に関しても、時自らが加冠を務めることで、得宗への協調姿勢の確認を行った可能性が考えられよう。 

*二月騒動…文永9(1272)年2月、六波羅探題南方であった庶兄の北条時輔に謀反の意志ありとして、執権・北条時宗が同探題北方・赤橋義宗に命じてこれを討たせた事件。この頃基頼は在京で、時輔方につけば討伐の対象になり得ただろう。幸いそうはならなかったようだが、過去のこともあってか、後藤氏も得宗にとっては警戒すべき相手だったのかもしれない。基政・基頼などは引付衆を務めた後に上洛して六波羅評定衆となっているので、若年であった基頼の嫡子・基宗も当初は鎌倉に居たと考えて良いだろう。

恐らく父・基頼が文永7(1270)年8月に上洛する*4際に、基宗ら家族も同行したのではないかと思われ、この時までに元服を済ませたのではないか。同年の元服とすれば、1260年代初頭の生まれとなり、これが妥当ではないかと思う。ここでは中川氏の掲げた弘長2年の生まれと推定しておく。

 

以上推論となってしまったが、基宗については史料が残されておらず、『尊卑分脈』に「同六波羅引付頭(人)) 左衛門尉 従五下 佐渡守」*5とあるのが確認できるのみである。 

 

弟・後藤基胤について

ちなみに同じく『尊卑分脈』には弟として基胤(もとたね)の掲載がある。「胤」字は千葉氏一門からの一字拝領であろうか。「信乃」と注記されているが、恐らく細川重男(特に基胤とは同人扱いにはせず)実名不詳としていた「後藤信濃前司」「後藤信濃入道」と同人なのではないか*6。次にその経歴を示す。

 

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№111後藤某(父:未詳、母:未詳)
  生没年未詳
01:年月日未詳      信濃
02:正中2(1325).05.25 在御所奉行
03:嘉暦1(1326).03.  出家
04:嘉暦1(1326).03.  在評定衆
 [典拠]
01:『鶴岡社務記録』正中2年5月25日条に、「御所奉行摂津刑部大輔入道々準・後藤信濃前司」とある。
02:同上。
03:02・04により、この人は正中2年5月より嘉暦元年3月までの10カ月間に出家したことがわかり、この間の出家の機会として可能性の高いのは嘉暦元年3月13日の高時の出家に従ったことである。よって、このように推定しておく。
04:金文374にある同年3月16日の評定メンバーに「後藤信濃入道」とある。

 

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(*表は、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№111-後藤某 | 日本中世史を楽しむ♪ より)

 

02の2年前、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において「後藤信乃前司」が「銀剱一 五衣一領」を進上しており(『北條貞時十三年忌供養記』)*7、同年の段階で信濃守を辞していたことが分かるので、30~40代での国守任官を経た年齢であったことが推測可能である。逆算すると基宗よりさほど年齢の離れていない弟に相応の世代になるかと思う。上記ブログ記事で細川氏は「前2代続けて六波羅に転じていた後藤氏が、この人に至って関東で評定衆に昇る。後藤氏、ギリギリで関東中枢に復活!」と述べられているが、恐らくは父に同行した基宗の系統がそのまま在京し、一方の基胤は鎌倉に戻って活動したのではないか。2つの系統に分かれた後藤氏が京都六波羅と鎌倉をそれぞれ拠点にしたと考えられる。

 

脚注 

*1:いずれも『尊卑分脈』による。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№110-後藤基頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:中川博夫「後藤基綱・基政父子(一) -その家譜と略伝について-」(所収:『芸文研究』48号、慶應義塾大学藝文学会、1986年)P.38。

*4:注2同箇所 参照。

*5:注1同箇所 および 黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.393。

*6:実際の史料上で「信濃」が「信乃」と表記される例は少なからずある(例:伊東祐宗 - Henkipedia 脚注2、太田貞連 - Henkipedia 参照)。

*7:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。