後藤基宗
後藤 基宗(ごとう もとむね、1262年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。
『尊卑分脈』*1によると、父は後藤基頼、母は宇都宮頼業(横田頼業)の娘で、弟に後藤基胤、子に後藤基雄がいたという。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
父・基頼は暦仁元(1238)年の生まれとされる*2ので、現実的な親子の年齢差を考えれば、基宗の生年は1258年頃より後と考えるべきであろう。
同じように歴代の親子の年齢差を参考にして弘長2(1262)年~文永9(1272)年の生まれとする中川博夫氏の推定*3に従うと、元服当時の将軍は7代・源惟康(のちの惟康親王,在職:1266~1289年)、執権は8代・北条時宗(在職:1268~1284年)に間違いなく、「基宗」の名は、6代将軍・宗尊親王ではなく時宗から偏諱を受けたものと考えられる。文永9年の生まれとしても、時宗が亡くなる弘安7(1284)年には元服の適齢を迎えるので、時宗執権期間内の元服であること確実である。
尚、得宗からの一字拝領は父・基頼に続くものだが、上記記事にて、曽祖父にあたる基綱(もとつな)が寛元4(1246)年の宮騒動(名越光時の陰謀計画)に関与して失脚し(のち1252年には引付衆として復帰、1256年に死去)、その子・基政(もとまさ)の復帰を許す際の条件として、当時の得宗(5代執権)・北条時頼がその嫡男(基頼)の烏帽子親を務めることで協調姿勢の確認をとったことを推測した。
そして、基政の代からは六波羅評定衆を務めるようになり、やがて活動の拠点が六波羅(京都)に移っていくことになるが、基頼の嫡子である基宗の生誕または元服と近い時期に「二月騒動*」が起きていることから、基宗に関しても、時宗自らが加冠を務めることで、得宗への協調姿勢の確認を行った可能性が考えられよう。
*二月騒動…文永9(1272)年2月、六波羅探題南方であった庶兄の北条時輔に謀反の意志ありとして、執権・北条時宗が同探題北方・赤橋義宗に命じてこれを討たせた事件。この頃基頼は在京で、時輔方につけば討伐の対象になり得ただろう。幸いそうはならなかったようだが、過去のこともあってか、後藤氏も得宗にとっては警戒すべき相手だったのかもしれない。基政・基頼などは引付衆を務めた後に上洛して六波羅評定衆となっているので、若年であった基頼の嫡子・基宗も当初は鎌倉に居たと考えて良いだろう。
恐らく父・基頼が文永7(1270)年8月に上洛する*4際に、基宗ら家族も同行したのではないかと思われ、この時までに元服を済ませたのではないか。同年の元服とすれば、1260年代初頭の生まれとなり、これが妥当ではないかと思う。ここでは中川氏の掲げた弘長2年の生まれと推定しておく。
以上推論となってしまったが、基宗については史料が残されておらず、『尊卑分脈』に「同(六波羅引付頭(人)) 左衛門尉 従五下 佐渡守」*5とあるのが確認できるのみである。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
尚、こちら▲の記事で紹介の通り、鎌倉時代末期に関東評定衆の一人として現れる「後藤信濃前司」および「後藤信濃入道」については弟の基胤に比定されると思う。
細川氏は自身のブログ記事*6で「前2代続けて六波羅に転じていた後藤氏が、この人に至って関東で評定衆に昇る。後藤氏、ギリギリで関東中枢に復活!」と述べられているが、恐らくは父に同行した基宗の系統がそのまま在京し、一方の基胤は鎌倉に戻って活動したのではないか。2つの系統に分かれた後藤氏が京都六波羅と鎌倉をそれぞれ拠点にしたと考えられる。