北条宗方
北条 宗方(ほうじょう むねかた、1278年~1305年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門・北条宗頼の次男。母は大友頼泰の娘。官途は右近将監、左近将監、駿河守。
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新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その16-北条宗方 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ、以下職員表と略す)*1によって経歴を示すと次の通りである。
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№16 北条宗方(元・久時)(父:北条宗頼、母:大友頼泰女、北条時宗猶子)
01:弘安1(1278). 生(1)
02:正応5(1292).12.18 左兵衛尉(15)
03:永仁2(1294).02.05 叙爵(17)
04:永仁2(1294).02.06 右近将監
05:永仁5(1297).06.23 六波羅北方(20)
06:正安1(1299).03.01 従五位上(22)
07:正安2(1300).11.25 東下(23)
08:正安2(1300).12.28 評定衆
09:正安3(1301).01.10 四番引付頭人(24)
10:正安3(1301).04.12 転左近将監
11:正安3(1301).08.20 駿河守
12:正安3(1301).08.25 辞四番引付頭人。越訴頭人
13:乾元1(1302).09.11 四番引付頭人(25)
14:嘉元2(1304).12.07 辞四番引付頭人。侍所所司・得宗家執事(27)
15:嘉元3(1305).05.04 没(為嘉元の乱)(28)
[典拠]
父:分脈。
母:鎌記・永仁5年条。『大友系図』(続類従・系図部)
本名:開闢。
猶子:帝王・巻27。六次第には「□時猶子」とあり、これは「貞時」と推定されるが、宗方は貞時の7歳下であり、年齢的にも時宗が正しいであろう。前田治幸氏「弘安七・八年の「相模四郎」について」(日本史史料研究会研究会報『ぶい&ぶい』3、2008年)。
01:没年齢より逆算。
02:鎌記・永仁5年条。
03:鎌記・永仁5年条。六次第。
04:鎌記・永仁5年条。六次第、5日とす。
05:鎌記・永仁5年条。帝王・巻27(7月2日入洛とす)。武記・永仁5年条、大日記・永仁5年条、開闢、6月23日鎌倉出立、7月6日入洛とす。分脈、7月6日上洛とす。
06:鎌記・永仁5年条。
07:鎌記・永仁5年条。分脈、14日とす。武記・永仁5年条、4日とす。開闢、帝王・巻27、15日とす。
08:鎌記・永仁5年条。
09:鎌記・永仁5年条。
10:鎌記・永仁5年条。六次第、永仁3年と誤記。
11:鎌記・永仁5年条。六次第、永仁3年と誤記。
12:鎌記・永仁5年条・正安3年条。六次第、永仁3年9月一番引付頭人と誤記。職員表・正安3年条の佐藤氏の考証に拠る。
13:鎌記・乾元元年条。
14:鎌記・永仁5年条・嘉元2年条。得宗家執事は間記に「内ノ執権」とあるに拠る。
15:間記。鎌記・永仁5年条。武記・永仁5年条。開闢。六次第。鎌記裏書・嘉元3年条。武記裏書・嘉元3年条。分脈、嘉元元年3月4日と誤記。帝王・巻27、4月4日と誤記。
※細川重男氏「嘉元の乱と北条貞時政権」(『立正史学』69、1991年。後、同氏『鎌倉政権得宗専制論』<吉川弘文館、2000年>に収録)。高橋慎一朗氏「北条時村と嘉元の乱」(『日本歴史』553、1994年)。菊池紳一氏「嘉元の乱に関する新史料-嘉元三年雑記の紹介-」(北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)。
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嘉元の乱を中心に、北条宗方については数多くの論文が発表されており、改めて本項で述べる必要はないかと思う。活動内容・生涯については、
等をご参照いただければ幸いである。
以下本項では「宗方」という名乗りに着目し、幾つか思うところを述べたい。
「宗」の字については、結果的には父・宗頼の1字を引き継いだようにも見えるが、『関東開闢皇代幷年代記』の記載通り、初名が「久時」(前述職員表:本名)だったのだとすればそうでなかったことになる。一方「方」の字は、祖先と仰ぐ北条時方(平時方)に由来するものとみられるから、やはり1文字目に戴く「宗」の字が烏帽子親からの偏諱の可能性が高いだろう。
ここで、細川氏が職員表で "猶父=北条時宗" とされたことに着目したい。実際、『帝王編年記』の宗方項に「最明寺入道孫 修理亮宗頼二男 相模守時宗為子(時宗 子と為(な)す)…」とあり、この説を裏付けている。「宗」の字を烏帽子親から賜ったのだとすれば、それもやはり得宗家(本家)当主の伯父・時宗以外に考えられないと思う。そして、時宗の猶子となりその偏諱を受けるためには、時宗が亡くなった弘安7(1284)年4月*2までに元服を済ませたと考えるのが妥当であろう。
弘安7年初頭に元服を遂げたと仮定した場合、生年に基づくと当時7歳となる。時宗*3以降の歴代得宗嫡子(時宗・貞時・高時・邦時)だけでなく、時宗の弟・宗政もこの年齢での元服であったという*4。すると、得宗家一門たる宗方も、その後の昇進が時宗流(得宗本家)や宗政流(北条師時・貞規)にさほど劣らないほど早かったことからすれば、この例外ではなかった可能性は十分に考えられよう。
猶子とはいえ、生まれた翌年に実父・宗頼が亡くなった*5ので、伯父である時宗が幼き甥を引き取った要素が大きかったと思われる。結局時宗の男子は貞時のみであり、実の父を亡くした甥たち(師時・時業(のち兼時)・宗方)を準嫡子になり得る存在として育成する目的があったのではないか。そして、宗方がちょうど自身と同じ7歳を迎えた時に時宗自らが烏帽子親を務めて「宗」の偏諱を与えたのであった。
ところで、前に述べた、初名が「久時」であったことについて、筆者はこれを否定する。7歳までに「幼名(具体的には不明だが「○寿(丸)」型か?)→久時→宗方」と目まぐるしく改名するのはあまりにも慌ただし過ぎるのではないか、という率直な考えもあるが、『関東開闢皇代幷年代記』に掲載されるのみで史料的根拠に弱いという理由もある。
それと比較すると、『開闢』では兄・兼時にも「本名業時」との記載があり*6、文字の順序は逆になるが『六次第』でも「本名時業」と書かれている。更に、鎌倉時代の成立で信憑性が高いとされる『入来院本 平氏系図』でも普音寺業時の娘(時兼の妹)の注記に「兼時室 本名時業」とある*7ほか、「相模七郎時業」と書かれた実際の書状も残されており*8、兼時が当初「時業(ときなり)」と名乗っていたことは認めて良いだろう。
もし宗方が「久時」を名乗っていたのであれば、同じく『六次第』・『入来院本 平氏系図』に記載があっても良いと思うのだが、そうでない以上信憑性は認め難いと思う。再び『帝王編年記』の宗方項を見ると「永仁五年六月廿三日上洛 七月二日入洛 久時替 二十」とあり、赤橋流北条久時*9に替わり(新たな六波羅探題北方として)20歳で入洛した旨の記述だが、この久時と混同した可能性もあり得よう。よって「宗方」が元服時に名乗った実名であると考えたい。
『前田本 平氏系図』によると、従弟(叔父・桜田時厳の子)にあたる北条篤貞の注記に「号平太 宗方為子(前述と同様)」とあり、宗方の養子になったことが分かる*10。宗方と運命を共にしたのか、詳細は分かっていないが、宗方―篤貞の2代に亘って得宗本家(時宗―貞時)の偏諱が認められた様子が窺える。
※[付記]:職員表および本文中の「六次第(『六波羅守護次第』)」については、熊谷隆之氏の論文にある翻刻*11を参照のこと。
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.16「北条宗方」の項 と同内容。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*3:北条時宗 - Henkipedia 参照。
*4:高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.160。典拠は 森幸夫「得宗家嫡の仮名をめぐる小考察」。森・高橋両氏は北条宗政(幼名:福寿)の元服を正元元(1259)年と推定されている。
*6:国史大系. 第5巻 吾妻鏡 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*7:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.10、16。
*8:弘安4(1281)年閏7月11日付「関東御教書」(『東寺文書五常』)。『鎌倉遺文』第19巻14388号 所収。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その29-赤橋久時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*10:注1前掲細川氏著書 P.51 注(33) および P.367。
*11:熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.103(867) 。