Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

伊東祐宗

伊東 祐宗(いとう すけむね、1265年~1349年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人

 

 

北条時宗の烏帽子子

伊東氏については次の系図に詳しい。 

【史料A】「南家 伊東氏藤原姓大系図*1より

(四)

使 六郎左衛門尉 従五下 大和守 母後藤佐渡前司基綱女 三河内侍 新続古今作有

祐宗

 号慈証入道 貞和五年己丑二月廿六日卒 八十四

(※旧字は適宜新字体に改めた。)

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母は後藤基綱(1181~1256)の娘で「三河内侍」と呼ばれた歌人であった*2。従って後藤基頼伊東祐宗は従兄弟関係になるが、年齢がかなり離れていることから、祐宗母は基政の妹であろう。以後、伊東・後藤両氏は婚姻関係を重ねていくことになる。

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一方、父は2代当主の伊東祐光であったが、3代当主となったのはその弟で叔父の伊東祐頼であった。 

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『日向纂記』*3によると、祐光が亡くなると、その嫡男であった祐宗がまだ幼少であったことをいいことに、祐頼が惣領を代行したが、(祐時の)6男でありながら家督を継いだ祐光の同母弟(祐頼は祐時の8男)であるとしてその正当性を主張したという。しかし、その母「三浦介女 尼空智」*4自らが祐宗を後継者に指名したことで、家督争いに決着がついたのであった。恐らく祐頼としては、自身の息子である祐継をそのまま第4代当主に据えようという魂胆だったのだろうが、その母親によって無事、祐光―祐宗へと家督継承がなされたのであった。

 

尚、「大系図」では祐宗の兄に伊東景祐(かげすけ、三郎九〔ママ、左カ〕衛門尉、母:二階堂出羽守行義女)を載せるが「雖為嫡男不継父継(嫡男為(た)りと雖(いえど)も父継を継がず)」との記載から廃嫡されたようである。

上記【史料A】によれば、祐宗は貞和5(1349)年2月に84歳で亡くなったといい、逆算すると文永2(1265)年生まれと分かる*5。翌3(1266)年には6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都へ送還されており*6、「」の名乗りは、弘安7(1284)年4月まで得宗・8代執権の座にあった北条時偏諱を受けたものと考えられる。時―祐は烏帽子親子関係にあったと判断され、紺戸淳の論考に従えば、これは伊東氏の嫡流継承者であることを保証してもらうために願い出たものではないかと推測される。これに倣って祐宗の嫡男・祐も次代得宗(9代執権)・北条時の1字を受けている。

 

 

元弘の変における祐宗

祐宗に関する史料として、次に掲げるものが確認できる。

 

【史料B】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*7

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎(胤貞)
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 東大和入道           宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)    □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守(信宗?)       三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道(貞親)        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
 
【史料C】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*8
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良貞義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守(高知)一族         結城七郎左衛門尉(朝高)一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道(宗長)一族
 東大和入道 一族            宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎(胤貞)

勢多橋警護
 佐々木近江前司(六角時信)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(*上記史料A・Bともに http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

元弘元(1331)年、後醍醐天皇笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げると、9月初頭、幕府側は討伐軍を差し向けることを決定(元弘の変)。上の史料B・Cはその幕府軍の名簿であるが、そのうちの「東大和入道」は「大系図」で「大和守」と注記される祐宗法名:慈証)(【史料A】参照)に比定できよう。かつて祖父・祐時が任じられたのと同じ国守(「大系図」・『吾妻鏡』など)への任官となるが、前述の生年に基づくとこの時60代半ば程の高齢であったことになり、30~40代で行われることが多かった国守任官の後に出家した年齢として妥当だと思う。

そして、同3年における【史料C】では「伊東大和入道一族」と書かれているから、恐らく嫡男・貞祐など一族も揃って参陣したものと思われるが、既に出家し高齢に達していたとはいえ、鎌倉時代末期においても祐宗が伊東氏一族をまとめる立場にあったことが窺えよう。ちなみに、同じく従軍する「薩摩常陸前司」は「大系図」に祐重薩摩守 二郎左衛門)の子として掲載の祐光常陸介 七郎兵衛)に比定される*9

 

尚、元弘3年7月10日付「備前安養寺衆徒軍忠状」(『備前安養寺文書』)の文中に「三石地頭東大和九郎宣祐」とあり*10、この人物は「大系図」で祐宗の子(貞祐の弟)として掲載の「三石九郎 憲祐」に比定される。字の違いはあるが、共に「のりすけ」と読める*11通称名は父・祐宗が「大和守」でその「九郎」(9男)を表すものの、「大系図」では祐宗の4男、八郎祐守や五郎祐忠の兄として書かれていて必ずしも9男とは断定できないが、いずれにせよ祐宗庶子であった宣祐(のりすけ)備前国和気郡三石*12の地頭を務めていたことが確認できるものである(「大系図」での記載からすると三石の地名をそのまま苗字としたのかもしれない)。逆に、この史料によって前述【史料B】【史料C】での「東大和入道」=祐宗 であることが裏付けられよう。

 

 

再度の家督争いと祐宗の逝去

「大系図」・『日向纂記』などによると、貞和4(1348)年7月に嫡孫で6代当主の伊東祐持(すけもち)が京都で病死すると、その嫡子・虎夜叉丸が幼少であったこともあり、祐宗は孫(貞祐の弟・八郎左衛門祐守の子)伊東祐𠘕(すけひろ)を自身の養子に迎え7代当主とする。夫との間に子が無かった湯地氏から迎えた祐宗の妻が養母になったという。 

しかし、祐𠘕も翌8月に日向へ向かう途上の周防国久多松沖で難風に遭って不慮の死を遂げたので、虎夜叉丸改め祐重(のち足利尊偏諱を受け祐に改名)が8代当主となった。当主が目まぐるしく変わったこの間も、祐宗が長老的立場にあったことが窺え、曽孫である祐重(氏祐)の家督継承を見届けたかのように、翌貞和5年にこの世を去ったのであった。

 

脚注

*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.74。尚、本文中では「大系図」と略記する。

*2:『日向記』(→『大日本史料』6-12 P.516)より。また『尊卑分脈』〈国史大系本〉にも後藤基綱の女子の一人に「信乃守藤原祐光妻」「続古今作者 同三川」の注記が見られる(→ 黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.394)。

*3:日向纂記. 巻1-3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:注1大系図 P.71 伊東祐光の注記より。P.73 祐頼の注記に「母同祐光」、「木脇一丸氏所蔵之系図」での祐頼の注記に「祐時八男 母三浦介平義澄女 法名成空智 祐頼余一刑部左衛門尉」(→『宮崎県木脇村史 木脇村編』〈宮崎県東諸県郡木脇村 編、1938年〉P.22)とあって、三浦義澄の娘と分かる。

*5:『大日本史料』6-12 P.509に掲載の「伊東系譜」にも同様の記載あり。没年齢(享年)を数え年とすると文永3(1266)年生まれとなってしまうが、ここでは「伊東系譜」に従っておく。

*6:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*7:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*8:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*9:注1大系図 P.70 によると、系譜は「祐長(祐時弟)―祐能―祐重―祐光」であり、祐宗の父とは同名別人である。

*10:『鎌倉遺文』第41巻32345号。

*11:「宣」を「のり」と読む例としては、本居宣長などが挙げられる。

*12:1971年まで町(地方自治体)として存在していた。三石町 (岡山県) - Wikipedia 参照。