Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

伊東祐頼

伊東 祐頼(いとう すけより、1237年~1293年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人

伊東祐時の8男。母は三浦義澄の娘*1。通称は与一(または余一)、刑部左衛門尉。日向国諸県郡木脇を領したことから、木脇祐頼(きわき ー)とも呼ばれ、木脇氏の祖となった。

 

 

北条時頼の烏帽子子

「南家 伊東氏藤原姓大系図(以下「大系図」と略記)等で祐頼の注記を見ると「五十七逝」と書かれている*2。この数字は没年齢・命日のいずれかが考えられるが、後述の【史料C】【史料D】等によって命日でないことは確かで、同史料が示す正応6(1293)年に57歳(数え年)で亡くなったと考えるべきである。逆算すると1237年生まれとなるが、後述【表A】や父・伊東祐時が亡くなった建長4(1252)年(後述参照)までに生まれているはずであることと矛盾はない。

そして、紺戸淳の論考*3に従って10~15歳での元服とした場合1246~1251年と推定可能である。ちょうど寛元4(1246)年からは北条時が5代執権となっており*4の名はその「」の偏諱を受けたものであろう。時―祐は烏帽子親子関係にあったと判断される。

 

ところで、紺戸氏は前述論考(論文)において次のように説かれている*5

嫡流の地位と、得宗家との烏帽子親子関係と、氏族相伝の職の帯有とはいずれもが不可分であり、嫡流を嗣ぐべき者のみが得宗家との烏帽子関係、および相伝の職帯有の資格を持ったのであった。換言するならば、得宗家との烏帽子親子関係によって付与された実名の一字は、嫡流の地位と、相伝の職帯有の資格の象徴なのである。…

時代が下ると、得宗専制が強化されるにつれて大仏流北条氏や安達氏、千葉氏などのように一字付与の対象が庶子にまで及ぶケースも出てくるが、金沢流北条氏や小田氏、小山氏、河越氏、三浦氏(三浦介家)などといった例を見ると確かに嫡流のみに限られており、この見解は強ち間違ってもないように思う。

伊東氏の場合も、系図で見る限り、歴代惣領(祐頼---祐宗―貞祐)以外の庶子は特に得宗の1字を受けておらず、得宗との烏帽子親子関係は鎌倉時代において惣領の座を継げる者の特権だったのではないかと推測される。

祐頼は本来祐時の8男(庶子)であったが、得宗・時頼の偏諱が許されながら、実際に一時的な惣領となっている。得宗からの偏諱と惣領の継承は分けて考えられない問題なのではないか。その意義を考察してみたいところだが、これについては改めて別稿で述べることとしたい。

 

 

吾妻鏡』における祐頼

前述した生年・烏帽子親の裏付けとして『吾妻鏡』での登場箇所を確認し、祐頼の活動を追ってみたい。

 

【表A】『吾妻鏡』における伊東祐頼の登場箇所*6

月日 史料での表記 概要
弘長3(1263) 1.8 伊東與一[余一] 前浜(=由比ヶ浜)における弓始め(予選)の射手三番。
1.1 伊東與一祐頼 弓始めにおける射手三番。
文永2(1265) 7.2 伊東余一 6代将軍・宗尊親王の7代執権・北条政村の小町亭への入御に際しての供奉人の1人。
文永3(1266) 1.1 伊東刑部左衛門尉 弓始めにおける射手一番。
2.1 伊東刑部左衛門尉祐頼 将軍・宗尊が蹴鞠用の内庭で若君への土産の馬をご覧になった際に、伊東祐能や波多野定康と共に乗って見せる。
7.3 伊東刑部左衛門尉祐頼 将軍・宗尊の更迭を巡る騒動の際、多くの近臣が親王を見捨てて将軍御所から逃げ出す中、島津忠景ら数名と共に御所に残留。
7.4 伊東刑部左衛門尉祐頼 将軍・宗尊の京都送還に際しての供奉人の1人。

若年であったからか、射手としての行事参加や、6代将軍・宗尊親王のお供といった役割が主な活動内容として確認できる。

そして、通称名の変化からして文永2年後半期に(刑部)左衛門尉に任官し、それまでは無官で「与一(余一)」を称していたことが窺える。ここで考えたいのが左衛門尉への任官年齢であるが、次に掲げる父・祐時の例が参考になるかと思う。

 

【表B】『吾妻鏡』における伊東祐時の通称名の変化*7

年月日 表記の変化 年齢
建保4(1216)年7月29日条~ 「伊東兵衛尉祐時」 32
建保6(1218)年6月27日条~ 「伊東左衛門尉祐時」 34
寛喜元(1229)年8月15日条~ 「伊東判官祐時」 45
嘉禎2(1236)年8月4日条~ 「大和守」 52
(暦仁元年正月1日条に「大和守祐時」)
暦仁元(1238)年2月28日条~ 「大和前司祐時」 54
建長4(1252)年6月17日条 「大和守従五位上藤原朝臣祐時卒」 68

*表の年齢は「大系図」に掲載の没年齢からの逆算による。

「大系図」等によると、文治元(1185)年生まれの祐時源頼朝を烏帽子親にしたと伝えられ、頼朝が亡くなる建久10(1199)年までに元服を済ませたはずであり、その年齢は15歳以下である(ちなみに、紺戸氏の手法が祐頼にも適用できると判断したのはこのためでもある)。その後は兵衛尉となり、33歳頃に左衛門尉、50歳程度で大和守への任官を果たしている。

祐頼の場合、前述の生年に基づくと29歳で左衛門尉に任官したことになるが、父より若干低年齢化しただけで妥当と言えよう。 

 

 

祐頼殺害事件

historyofjapan-henki.hateblo.jp

鎌倉時代の代表的な歴史書である『吾妻鏡』は、前述の6代将軍・宗尊親王の京都送還・到着の場面で終了する。その後の祐頼は、先代・祐光の嫡男である祐宗が幼少であるのをいいことに、事実上惣領の座を代行することとなるが、その具体的な活動については、「木脇一丸氏所蔵之系図」での注記によると、建治元(1275)年秋には鎌倉から上洛して皇室を守護し、弘安4(1281)年の弘安の役では多勢で押し寄せてきた蒙古軍を筑前国博多で破って大いに武威を振るったという*8

そして、死没について「永仁元年癸己三月二十三日卒年五十七」との記載が見られる*9が、次の史料によって裏付けられる。

【史料B】『鎌倉年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

今年永仁元 三月廿三日、伊東刑部左衛門尉祐頼於時村朝臣宿所若宮小路前、被殺害訖、

読み下し:伊東刑部左衛門の尉祐頼、時村朝臣の宿所の前に於いて殺害せられをはんぬ

(*http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/nendai/129300.html より

 

【史料C】『武家年代記』裏書(『増補 続史料大成 第51巻』)より

(正応)六年 永仁元

三廿三、伊東刑部左祐頼被殺害了武州時村之亭也、

正応6(1293=永仁元)年3月23日、鎌倉・若宮小路にある武蔵守・北条時村の邸宅前で殺害されたというこの祐頼は、苗字・官途(通称名)・実名すべての一致からして前述の『吾妻鏡』等に出てきた人物と同一人物としか考えられない。

上記2点のほか、『醍醐寺日記』(『親玄僧正日記』)同月24日条にも「伊藤刑部左衛門〔ママ〕」殺害についての記事がある*10管見の限り、先行研究やネット情報であまり注目されていないようだが、これらの独立した史料に記録されるほどの一大事件であったと思われる。

しかし、誰の仕業によるものなのかについては、その動機も含め明らかにされておらず謎である。 ただ、この1ヶ月後にはいわゆる「平禅門の乱」が起きており、その前段階としての関連した出来事だった可能性も考えられよう。

 

ちなみに、「木脇祐篤氏所蔵之系図」の祐頼(祐時8男)の項に「伊東。木脇又八郎、刑部左衛門、住遠江木脇 泰原郡 今称久野脇 正和二年正月十九日卒」とある*11が、この没年月日は誰かと混同した誤りであろう。これまでに紹介した「刑部左衛門尉祐頼」と同人を指すことは明らかで、正和2(1313)年に数え57歳で亡くなったとすると祐時死後の1257年生まれとなってしまい、『吾妻鏡』での初出当時7歳となるのもまた奇妙である。

 

脚注

*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.71の兄・伊東祐光の注記に「母三浦介女 尼 空智」とあり、同P.73 祐頼の注記にも「母同祐光」とある。そして「木脇一丸氏所蔵之系図」での祐頼の注記に「祐時八男 母三浦介平義澄女 法名成空智 祐頼余一刑部左衛門尉」(→『宮崎県木脇村史 木脇村編』〈宮崎県東諸県郡木脇村 編、1938年〉P.22)とあることから、三浦義澄の娘と分かる。

*2:注1大系図 P.73。『大日本史料』6-3 P.210

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:注3前掲紺戸氏論文 P.22。

*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.412「祐頼 伊東」の項に基づき作成。

*7:前注『吾妻鏡人名索引』P.407~408「祐時 伊東」の項に基づき作成。

*8:『宮崎県木脇村史 木脇村編』〈宮崎県東諸県郡木脇村 編、1938年〉P.26~27 参照。

*9:前注同書 P.27において執筆者は鎌倉の地で "病没" としているが【史料C】【史料D】によって死因が他殺であったことが分かる。

*10:『編年史料』永仁元年二月~三月 P.56

*11:『宮崎県木脇村史 木脇村編』〈宮崎県東諸県郡木脇村 編、1938年〉P.22