千葉胤宗
千葉 胤宗(ちば たねむね、1268年~1312年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。千葉氏第10代当主。
『尊卑分脈』の千葉氏系図では貞胤の父(および先代の千葉介)を宗胤とし*1、「藤井本 千葉系図」には「宗胤 千葉介、始ハ胤宗、贈官也、」とある*2。
他方で、『系図纂要』千葉胤宗の傍注に「千葉介、従五下、太郎」と注記される*3ほか、紺戸淳氏の論文でも、『尊卑分脈』での記載に対し、『続群書類従』所収「千葉系図」では貞胤は宗胤の弟・胤宗の子として記載され、宗胤の子が胤貞となっている(※実際この情報は正しい)ということについて「宗胤、胤宗、貞胤、胤貞というのは唯二字名がひっくり返っているだけなので、何らかの混乱があると思われる」と評価される*4など、宗胤と胤宗については混同されてきたようである。
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しかし、残存する数点の史料によって、宗胤とは別に胤宗の実在が確認できる。
● 元徳2(1330)年6月24日付「下総香取社造営次第」(『香取神宮文書』)*5
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こちら▲の記事でも触れた史料だが、弘安3(1280)年4月12日に香取神社の造営の宣旨が下され、雑掌として国衙役である大行事らに指示し材木の調達等、造営を取り仕切った人物として「千葉介胤宗」の記載が見られる。
室町時代初期の文書であるため、掲載された名前は、宣旨が下された時点または遷宮時当時のものではなく、その人物の最終的な通称で書かれているらしい*6。しかし、『本土寺過去帳』に正和元(1312)年3月28日に享年45(数え年、以下同様)で亡くなったとの記載があり*7、逆算すると文永5(1268)年生まれとなる。『千葉大系図』でも同年9月24日の誕生としており*8、弘安3年当時は13歳と元服の適齢となるため、この頃「胤宗」を称したと考えて良いのではないかと思う。
そして「胤宗」という名乗りに着目すると、この当時の得宗・8代執権であった北条時宗の偏諱を許されていることが分かり、時宗と胤宗は烏帽子親子関係にあったと判断される。
その他、千葉胤宗に関する史料は次の2点が残存する。
● 正安2(1300)年3月8日付「千葉介胤宗禁制」(『三国地誌百三伊賀国旧案』)*9
● (元亨4(1324)年?)6月16日付 「千葉胤宗請文写」(『香取旧大祢宜家文書』)*10:「千葉介殿御請文案」の端裏書と「平胤宗」の署名あり。
(参考ページ)
● 千葉介胤宗