Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千葉胤宗

千葉 胤(ちば たねむね、1268年~1312年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。千葉氏第10代当主。

 

尊卑分脈』の千葉氏系図では貞胤の父(および先代の千葉介)宗胤とし*1、「藤井本 千葉系図」には「宗胤 千葉介、始ハ胤宗贈官也、」とある*2

他方で、『系図纂要』千葉胤宗の傍注に「千葉介、従五下、太郎」と注記される*3ほか、紺戸淳の論文でも、『尊卑分脈』での記載に対し、『続群書類従』所収「千葉系図」では貞胤は宗胤の弟・胤宗の子として記載され、宗胤の子が胤貞となっている(※実際この情報は正しい)ということについて「宗胤、胤宗、貞胤、胤貞というのは唯二字名がひっくり返っているだけなので、何らかの混乱があると思われる」と評価される*4など、宗胤と胤宗については混同されてきたようである。

 

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しかし、残存する数点の史料によって、宗胤とは別に胤宗の実在が確認できる。 

 

元徳2(1330)年6月24日付「下総香取社造営次第」(『香取神宮文書』)*5

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被下 宣旨於弘安三年庚辰四月十二日 千葉介胤宗  正応六年癸巳三月二日御遷宮 間十四年 
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こちら▲の記事でも触れた史料だが、弘安3(1280)年4月12日に香取神社の造営の宣旨が下され、雑掌として国衙役である大行事らに指示し材木の調達等、造営を取り仕切った人物として「千葉介胤宗」の記載が見られる。

室町時代初期の文書であるため、掲載された名前は、宣旨が下された時点または遷宮時当時のものではなく、その人物の最終的な通称で書かれているらしい*6。しかし、本土寺過去帳正和元(1312)年3月28日享年45(数え年、以下同様)で亡くなったとの記載があり*7、弘安3年当時は13歳元服の適齢であるため、この頃「胤宗」を称したと考えて良いのではないかと思う。

そして「」という名乗りに着目すると、この当時の得宗・8代執権であった北条時偏諱を許されていることが分かり、時と胤は烏帽子親子関係にあったと判断される。

 

その他、千葉胤宗に関する史料は次の2点が残存する。 

 正安2(1300)年3月8日付「千葉介胤宗禁制」(『三国地誌百三伊賀国旧案』)*8

 (元亨4(1324)年?)6月16日付 「千葉胤宗請文写」(『香取旧大祢宜家文書』)*9:「千葉介殿御請文案」の端裏書と「平胤宗」の署名あり。

 

 

(参考ページ) 

 千葉介胤宗

 千葉胤宗 - Wikipedia

 

脚注

*1:『大日本史料』6-14 P.373

*2:『大日本史料』6-14 P.379

*3:『大日本史料』6-14 P.378

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.18 。

*5:『鎌倉遺文』第40巻31078号。

*6:千葉介胤宗 より。

*7:http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/cf/cf_993-1.pdf より。逆算すると文永5(1268)年生まれ。

*8:『鎌倉遺文』第27巻20391号。

*9:『鎌倉遺文』第37巻28814号。