飯沼資宗
飯沼 資宗(いいぬま すけむね、1267年~1293年)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人。内管領(得宗家執事)であった平頼綱の次男。平宗綱の実弟。
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飯沼資宗 - Wikipedia にて言及されている通り、弘安2(1279)年のいわゆる「熱原法難」の様子を伝える、日興(日蓮の弟子)著『弟子分帳』(『弟子分本尊目録』所収)に「平左衛門入道」の「子息飯沼判官十三歳」の記載があり、『武家年代記』正応年間(1288年~1293年)の久明親王の注記中に「廷尉助宗号飯沼判官」とあるなどによって資宗に比定される。すなわち、弘安2年当時資宗は13歳(数え年)と元服の適齢であったことになり、当時の得宗・8代執権であった北条時宗の偏諱を受けたとする梶川貴子氏の説*1は妥当だと思う。
尚、諱(実名)について、本来の正しい表記は「資宗」であったと思う。
既に細川重男氏がそのように提唱されているが、その理由に従兄弟(頼綱の甥)とされる長崎円喜の子も長崎高資(『保暦間記』など)と名乗っていることを挙げ、資宗・高資の「資」が平資盛に通じることから、頼綱が家格上昇を目指すために清盛流平氏の後胤説を言い出したのではないかと説かれている*2。高資の子・長崎高重の名乗りも資盛の父・平重盛に由来するものであろう(下記記事参照)。
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但し、「助宗」と表記する史料も少なからずあり、これは誤記というより別名(別名義)として考えて良いだろう。恐らくは公家等の間で通称的な代用表記として広く知れ渡っていたものと思われる。
その他活動の詳細等については
などを参照のこと。
脚注
*1:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115。
*2:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』(日本史史料研究会、2007年)P.128。「資」字については今野慶信氏からの教示によるという。