安達宗景
安達 宗景(あだち むねかげ、1259年~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。安達泰盛の嫡男。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
『関東評定衆伝』弘安4(1281)年条には、引付衆の一人に「城九郎藤原宗景」の記載があり、その注記を見ると、この時23歳だったので父の例に倣い2月に加えられたと書かれている*1。逆算すると正元元(1259)年生まれと分かる*2。
歴代の秋田城介(景盛―義景―泰盛―宗景)の名乗りが「●盛」「●景」型で交互に名付けられていることは既に指摘されている通りである*4が、●は烏帽子親となった得宗からの偏諱であったことが窺える。
前述の生年に基づき、紺戸淳氏の論考*5に従って元服の年次を推定するとおおよそ1268~1273年となる。婚姻などの安達・北条得宗両家の親密な関係を踏まえても「宗景」の「宗」は、1266年に解任された6代将軍・宗尊親王*6からではなく、8代執権・北条時宗からの偏諱と考えて問題ない。
「城九郎」とは、秋田城介の「九郎(9男)」を表す通称である*7が、第何子かにかかわらず、安達盛長以来の秋田城介を継ぐべき嫡男(家督継承者)に与えられる称号と化していた。実際、安達泰盛の嫡男であった宗景も、弘安5(1282)年10月16日に秋田城介を父から継承している*8。
上記系図にある通り、安達盛宗という庶兄がいたことが明らかとなっているが、時宗からの偏諱の位置が宗景と逆である。千葉宗胤・胤宗兄弟、平宗綱・飯沼資宗兄弟などと同様に、嫡子・庶子の違いによって偏諱の位置を違えた例であった。すなわち、宗景が嫡男、盛宗が庶子であったことがこの点からも裏付けられよう。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その83-安達宗景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事、以下同じ)
● 安達氏なのに「安達さん」と呼ばれない。 | 日本中世史を楽しむ♪
脚注
*1:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その83-安達宗景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*3:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
*4:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.153。
*5:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。
*6:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。
*7:安達氏なのに「安達さん」と呼ばれない。 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。
*8:『関東評定衆伝』同年条(→ 群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション)より。