Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達時景

安達 時景(あだち ときかげ、1253年?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人

 

 

生年の推定

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▲【系図A】安達氏略系図*1

 

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系図類によれば、時景は安達義景の末子であり、義景が亡くなる1253年までには生まれているはずである。また、同じく飛鳥井雅経の娘を母とする兄の安達顕盛は1245年生まれと判明しており、次いで安達長景という兄が生まれているから、時景が生まれたのは早くとも1247年のはずである。従って、時景の生年は1247~1253年の間と分かる。

 

顕盛は文永11(1274)年に30歳(数え年、以下同様)で加賀守*2、長景は弘安2(1279)年に美濃守*3と、各々国守任官を果たしている。

それに対し、『関東評定衆伝』弘安5(1282)年条には、引付衆の一人に「城左衛門少尉藤原時景」が加えられた旨の記載があり*4、これが史料における時景の初見とされる*5が、まだ国守に昇っていなかったことが分かる。更に同7(1284)年条では同じ通称名のままで4月に出家したことが書かれており法名:智玄)*6、4月4日の8代執権・北条時宗の逝去を悼んでの剃髪とみられるが、結局国守に昇ることは無かった。

 

顕盛のみならず、安達氏一門においては30歳位で国守に昇る傾向にあった。長景も同じく30歳か(弟であるから)31,2歳位で美濃守に任官したのであろう。時景の場合はその年齢に達していなかったか、30代前半になったばかりだったので国守に昇っていなかったと考えられよう。

義景が亡くなった1253年(6月3日まで)の生まれとした場合、1284年当時32歳となり、国守に昇っても良さそうだが、それを目前に控えながら出家したのではないか。よって、時景は義景晩年期に生まれた息子と考えて良いだろう。

ここで次の史料に着目したい。

【史料B】『吾妻鏡』建長2(1250)年7月18日条

建長二年七月小十八日壬午。申尅大地震。其後小動十六度云々。」今日。秋田城介義景男子出生云々。 

秋田城介安達義景に生まれたというこの男子について、詳細は明かされていないが、顕盛より後に生まれていることから、長景時景のいずれかに比定される。福島金治時景と推定される(但し「断定はできない」とする)*7が、1284年当時35歳でありながら国守に任官していないのはやや不自然にも感じられるし、この場合長景は1246~1249年の生まれとなるが、31~34歳で美濃守に任官したことになる。

一方、上記【史料B】での男子=長景とした場合、美濃守任官時30歳となり、どちらかと言えばこちらの方が自然に感じられ、可能性が高いのではないか。同じく『吾妻鏡』によれば建長4(1252)年に義景の妻が女子を出産しており、のちに時宗の妻となる「堀内殿」であるという*8

これらの観点も踏まえると時景は1253年頃の生まれとするのが妥当ではないかと思う。

 

北条時宗の烏帽子子

前述の生年に基づき、紺戸淳の論考*9に従って元服の年次を推定するとおおよそ1262~1267年となる。1263年からは北条得宗家督を継いでおり、福島氏は景の「」はその偏諱を受けたもの(「景」は父・義景の1字)で、「幼少時を時宗とともにすごした人物」と考えられている*10が、全くの同意である。生まれて間もなく父を亡くした堀内殿や時景にとって、嫡兄の安達泰盛が事実上父代わりの存在であり、近親者の時宗とは兄弟のような関係を築いていたのであろう。 宗は7歳という若さで先に元服を済ませており、その数年後に10数歳という元服の適齢を迎えた景がその1字を賜ったものと推測される。その関係性は、前述の繰り返しになるが、弘安7年に時宗が亡くなると、近日中の国守任官を控えた30数歳の若さにもかかわらず出家していることからも窺えよう。 

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また下の【系図C】にあるように、時景には(もりむね)という息子がいたらしいが、親子の年齢差を考慮すると1273年頃に生まれ、やはり1284年までに同じく時偏諱を賜ったと考えられよう。時景が息子の加冠を願い出たものと思われるが、2代に亘り時宗を烏帽子親とした珍しい事例である。

 

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▲【系図C】『尊卑分脈』安達氏系図より一部抜粋*11

また【系図C】での時景の傍注には「十郎判官」「左衛門尉」「弘安八自害」との記載があり、翌弘安8(1285)年11月の霜月騒動で討たれた者の1人「十郎判官入道*12は出家後の時景法名:智玄)に比定される。

 

鈴木宏の研究によると、時景武蔵国古尾谷荘(現・埼玉県川越市古谷本郷)預所と地頭職を兼任していたといい、その具体的な活動として、荒廃していた古谷本郷八幡社を弘安元(1278)年に造営して梵鐘を鋳たことが確認される*13

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また『尊卑分脈』によると、平賀朝政(=平賀朝雅の曾孫・平賀貞経の注記に「母城十郎時景女」とあり*14、時景には息子の盛宗以外に、平賀朝村に嫁いで貞経を産んだ娘がいたことが窺える。

 

脚注

*1:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。【系図C】(『尊卑分脈』)と同内容。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№88-安達顕盛 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№91-安達長景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*4:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№92-安達時景 | 日本中世史を楽しむ♪より。

*6:前注同箇所 および 群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*7:福島金治『安達泰盛鎌倉幕府 霜月騒動とその周辺』〈有隣新書63〉(有隣堂、2006年)P.49。

*8:前注同箇所。

*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。10~15歳での元服とした場合。

*10:注7同箇所。

*11:P.287。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*12:安達泰盛乱聞書」より。同じく『梵網戒本疏日珠抄裏文書』(熊谷直之所蔵)に所収の、他の書状における「秋田大夫判官入道」や「城大夫判官入道」も時景であろう。年代記弘安8年 参照。

*13:鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.335、P.388 注(71)。典拠は 石井進武蔵国古尾谷荘と児玉郡池屋のことなど ―埼玉県関係文書拾遺―」(所収:『新編埼玉県史だより』18号、1985年)。

*14:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション大内氏 | 四郎勝頼の京都祇園日記