大曽祢盛経
大曽祢 盛経(おおそね もりつね、1212年頃?~没年不詳)は鎌倉時代中期の武将、御家人。
安達盛長の次男で大曾禰氏の始祖である大曾禰時長の次男で、2代当主・大曾禰長泰の弟。呼称は大曾禰盛経(旧字表記)、大曽根盛経とも。
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「盛」が祖父・盛長に由来する字であるから、「経」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。『吾妻鏡』での初見は、嘉禎2(1236)年8月4日条「大曾禰太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉」。暦仁元(1238)年2月17日条にも「大曾禰太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉」、暦仁2(1239=延応元)年1月2日条「大曾禰太郎兵衛尉長経〔ママ、長泰の誤記〕 同次郎兵衛尉盛経」とあることから、北条経時執権期(1242年~1246年)以前から「経」字を与えられていたことが分かる。これは第4代将軍・藤原頼経(九条頼経)からの偏諱と考えるべきなのだろう。
ここで注目すべきは、兄・長泰が執権・北条泰時の偏諱を受けて「太郎」を称したのに対し、弟の盛経は将軍・九条頼経の偏諱を受けながらもそれに次ぐ「次郎」を名乗っているということである。長泰が嫡流を継承したことは確実で、北条氏得宗家が特定の御家人の嫡流との結合のみに烏帽子親子関係を利用したという紺戸淳氏の説が決して間違いではないことが窺えよう。
この時期においては将軍を烏帽子親にするよりも、執権・北条氏と烏帽子親子関係を結んだ者の方が格上、という風潮が広まっていた可能性がある。北条経時・時頼兄弟を除き、頼経は他の御家人庶子に対して一字付与を行うことで、反執権派の形成を図っていたのかもしれない。