Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達頼景

安達 頼景(あだち よりかげ、1229年~1292年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人安達義景の長男。関戸頼景(せきど ー)とも。

 

 

安達泰盛の庶兄

頼景の活動経歴については、『吾妻鏡』のほか、主に『関東評定衆伝』弘長3(1263)年条にあるプロフィールで確認ができる。それによると、正応5(1292)年1月9日に64歳(数え年)で亡くなったといい、逆算すると寛喜元(1229)年生まれと分かる。 

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こちら▲の記事で紹介した通り、当初「城九郎」を称し、安達義景から秋田城介を継承した安達泰盛については同3(1231)年生まれと判明しており、頼景はその庶兄であったことになる。 

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尊卑分脈』によると、頼景の母は武藤頼佐の娘、泰盛の母は小笠原時長の娘で、異母兄弟であった。各々義景の側室、正室であったことから、泰盛が嫡子に定められたのであろう。 

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尊卑分脈』等の系図類では安達義景の長男とするが、泰盛の次に義景の4男として生まれた時盛が「四郎」を名乗り、以下弟たち(五郎重景、弥九郎長景、十郎時景など)も出生順の輩行名を称した可能性が高いので、その記載通りで良いと思う。 

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頼景の通称は「次郎」であったが、頼景元服の段階では僅か2歳下の泰盛が嫡子に決まっていたので、父が当初称していた「太郎」は避けられたのであろう*1。これに伴って義景の次男・景村は「三郎」と称し、3男でありながら嫡子となった泰盛は盛長―景盛の通称であった「九郎」を名乗ることとなったのである。

 

烏帽子親の推定

本節では「景」の名乗りについて考えたい。「景」は父・義景から引き継いだものであるから、わざわざ上(1文字目)にしている「」が烏帽子親からの一字拝領であろう。

 

上記各記事にてそれぞれ景が北条時、盛が北条時から1字を受けたことについて言及した。更に北条・安達両氏は縁戚関係などで連携を強化していたことから、準嫡子格の安達盛が北条頼、末弟の景も北条宗から1字を賜った様子がみられる。

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▲【系図】安達氏略系図*2

 

それもあってか、鈴木宏景が北条時から1字を受けたとする見解を出されている。しかし、『吾妻鏡』では時頼が執権となる前から「頼景」の名で登場しており*3、かつ泰盛より先に生まれながら泰時の孫(4代執権経時の弟)である時頼の1字を受けるというのは不可解である。

よって、烏帽子親は時頼ではない別の人物であったと考えられる。母方の武藤氏から受けた可能性も考えられないことはないが、『尊卑分脈』等によれば頼景以降「長義―義」と名乗っている*4ことを踏まえると、将軍から賜った可能性が高いのではないか*5景の「」は元服当時の4代将軍・九条からの偏諱ではないかと思う。

 

 

(参考ページ)

 安達頼景 - Wikipedia

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪

wallerstein.hatenadiary.org

 

脚注

*1:義景元服の段階では「九郎」を称すことが特に慣例となっていなかったのか、(景盛の)長男ということで「太郎」と名付けられたのであろう。但しその後も泰盛の庶長子・盛宗が「次郎」を称したのに対し、その弟で嫡子となった九郎宗景の子・貞泰は「(陸奥)太郎」を称しており、この通称名(輩行名)は「九郎」と並んで嫡子格の者しか称することのできない特別なものであったと思われる。

*2:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*3:吾妻鏡』での初見は仁治2(1241)年1月23日条城次郎」、実名付きで最初に記されるのは寛元2(1244)年8月15日条城次郎頼景」(翌16日条にも「流鏑馬 五番 城介(=義景) 射手 子息次郎」)である。御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.421~422「頼景 安達」の項 より。

*4:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*5:「長」は安達盛長、「義」は安達義景に由来すると思われるので、「宗」「貞」が烏帽子親からの偏諱と判断される。関戸義貞の「貞」は北条貞時からの偏諱とみられるが、その前に「宗」字を持った人物が2代続いており(長宗―宗義)、特に関戸長宗については6代将軍・宗尊親王から賜った可能性が考えられると思う。