結城貞広
結城 貞広(ゆうき さだひろ、旧字表記:結城貞廣、1289年~1309年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。下総結城氏第5代当主。
父は4代当主・結城時広。母は小山時村の娘*1。子に結城朝高(朝祐)。
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▲【図A】「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本/原本:松平基則氏所蔵)*2より抜粋
「鎌倉執権北条貞時一字を授く。故に貞広と名す*3」と直接的な表現で記載されているのは珍しい。
ここには、延慶2(1309)年に21歳で亡くなったことも記されているが、他の系図類・過去帳でも確認ができることはこちら▼の記事を参照のこと。
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逆算すると正応2(1289)年生まれとなる。その裏付けとして、永仁2(1294)年の成立とされる「結城系図」*4では、時広の子が幼名で「犬次郎丸」と記載されており、当時6歳(数え年、以下同様)位であったこの頃の段階ではまだ元服を済ませていなかった事が窺える。
そして、北条貞時が出家して第9代執権を辞した正安3(1301)年*5には貞広が13歳と元服の適齢を迎えるので、それまでに元服して「貞」の偏諱を受けたと考えられるが、荒川善夫氏が紹介された次の史料により証明が可能である。
【史料B】正安2(1300)年9月日付「結城貞広・禅尼定書写」(「結城家譜草案」、『松平文庫』No.242)*6
制止 妙法寺之内狼藉事
右、被定置四至・堺上者、於〔向〕後寺中之間、郡内上下道俗男女之輩殺生以下狼藉事、令停止之、若自今以後違犯之仁者、可被行罪科旨、所定如件、
正安二年九月日
禅尼
(花押影)
是者、貞広君御十二之時、母公御判物之制止也、
この史料は、貞広とその母「禅尼」(時広未亡人、小山時村娘)が連署で発給し、結城氏の所領内にあった妙法寺(所在地不詳、荒川氏は日蓮宗寺院と推測)において、殺生以下の狼藉の停止を命じたものである*7。『結城市史』*8では「山川氏の末裔山川修二氏の所蔵の文書の中に、かつて『結城貞広公御母公御制止一通』があったと記してある」というが、荒川氏はこの【史料B】がそれに当たるのではないかと説かれている*9。
そして注記もあるように貞広は当時12歳で、その名から貞時がまだ執権在職であったこの時には既に元服済みであったことが明らかである。よって【図A】の注記の信憑性は認められよう。
(参考ページ)
脚注
*1:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】に「母小山判官入道女」、【図I】に「母小山四郎判官時村女」との注記がある。
*2:『結城市史』第一巻 古代中世史料編(結城市、1977年)P.664。
*3:『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.297。
*4:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】参照。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*6:荒川善夫 編著 『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉戎光祥出版、2012年)P.359~360 より。
*7:注6前掲荒川氏著書 P.377~378。
*8:注3同箇所。
*9:注7同箇所。