結城時広
結城 時広(ゆうき ときひろ、旧字表記:結城時廣、1267年(1271年とも)~1290年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。下総結城氏第4代当主。
父は結城広綱。母は二階堂行忠の娘*1。
市村高男氏の見解によれば、結城氏第2代当主・朝広の息子の中で、嫡男・広綱だけが「広○」型、その他の庶子が「○広」型の名乗りであることから、当初嫡流の継承者だけが「広○」型で名乗った可能性が高いが、その後「時広―貞広」と「○広」型の名乗りに変化しているのは得宗(北条時宗―貞時)からの偏諱を上(1文字目)に戴いたからであると説かれている*2。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
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詳しくはこちら▲の記事で紹介しているが、幾つか伝わる系図類や過去帳によれば、時広は正応3(1290)年7月1日に20歳または24歳で死没したという。逆算すると文永4(1267)年または同8(1271)年の生まれとなる。 元服は通常10~15歳程度で行われることが多く、前述の生年に基づけば元服当時の執権は確実に北条時宗(在職:1268年~1284年*3) である。
これについて荒川善夫氏は、父である広綱が得宗家への従属を示す一環として、我が子(時広)の元服に際し、得宗家当主である時宗にその烏帽子親となるよう願い出たものではないかとしている*4。その頃は北条氏得宗家が専制体制(いわゆる "得宗専制" )を築く段階であり、結城氏も家の存続のために得宗家に接近し、また従属する姿勢を示しており、その中で得宗からの一字を受けたとみられる*5。鎌倉後期の「時広―貞広―朝高(のち朝祐)」は、御家人身分を維持したまま北条得宗家の被官となったとの指摘もあり*6、歴代得宗「時宗―貞時―高時」と烏帽子親子関係にあったことが窺える。
(参考ページ)
脚注
*1:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】に「母信濃判官入道行一女」(「行一」は二階堂行忠の法名)、【図I】に「母信乃判官行忠女」との注記がある。
*2:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.97。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:荒川善夫 「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:同氏編著 『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉戎光祥出版、2012年)P.11。