石川時光
石川 時光(いしかわ ときみつ、1260年頃?~1335年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏の第13代当主。
時光公
母堂経時朝臣女、称六郎、実山月公之季子、先公養為世子、於鎌倉府執政北條氏之第加首服、乞時宗之偏諱、改時光、元弘三年(※注記省略)七月朔日上洛、以足利治部大輔高氏、為御味方上洛之旨、……(以下略)
この系図では石川家光の子としながらも、実は「山月公」=石川盛義(諡:山月成川)の末子*2であったとしており、長兄・家光の世子(養嗣子)*3となったようである。そして、鎌倉幕府執権・北条氏の邸宅*4で元服して北条時宗の偏諱を乞(こ=請)い、(幼名から)時光に改めたと伝える。
母は経時の娘であったというが、4代執権・北条経時のことだろう*5。すなわち、時光の母親は時宗の従姉妹にあたり、この縁もあって烏帽子親を依頼したのではないかと思う。
経時 (1214-1246) の外孫にあたる時光の生年は早くとも1250年代半ばと推定可能で、北条時宗執権期(在職:1268年~1284年*6)の元服であることは間違いない。
兄・家光の子で自身の養子に迎えた貞光も次期得宗・北条貞時を烏帽子親として元服したと伝わる。
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上記【史料】での「元弘三年~」の記載は、足利高氏(のち尊氏)が花押を据えた、元弘3(1333)年7月2日付の書状(『板橋文書』)に「陸奥国石河□〔六カ〕郎源時光、□為御方、今月一日参洛候」とある*7によって、その実在とともに確認ができる。 鎌倉幕府滅亡から間もないこの頃には安芸国の三戸頼忠、肥後国の宇治(上島)惟頼など、全国各地から御家人が京都に馳せ参じ、建武新政権に参加したのであった。
(参考ページ)
● 石川氏一千年史. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション
脚注
*1:『大日本史料』6-2 P.374。『大日本史料』6-1 P.163。
*2:季子が末子の意。季子(キシ)とは - コトバンク より。
*4:聚楽第などの例があるように、史料上では邸宅の意で「第」の1字が使われることが少なくない(→ 第(ダイ)とは - コトバンク)。また、北条氏の邸宅で元服が行われた他の事例については 鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与 - Henkipedia を参照のこと。
*5:石川盛義 - Wikipedia、石川氏一千年史. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。