Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千竈時家

千竈 時家(ちかま ときいえ、生年未詳(1270年頃?)~没年未詳)は、鎌倉時代後期の武士、御家人御内人得宗被官)。

 

 

前史

千竈氏桓武平氏高望流秩父氏の末裔とされ、鎌倉時代を通じて尾張国千竈郷(現・名古屋市南区千竈通)を本拠地とした御家人であると同時に、得宗家の被官として海上交通を掌握したとされる。系図は次のものが伝わっている。

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▲【図A】平・千竃氏系図*1

 

この系図によれば、時家は秩父重義の末子となっている。しかし、『尊卑分脈』等他の系図と比較すると、有重―重成は小山田有重稲毛重成父子に比定されるので、有重の兄・重義は畠山重能のことであろう*2。従って、時家は畠山重忠長野重清渋江重宗などの末弟であったことになるが年代が合わず、更に、詳しくは後述するが時家より前には先代で父親とみられる「千竈六郎入道」の実在が確認できるので、恐らくは世代が抜けているものと思われるが、誤伝であろう(但し実際の真偽はともかく、千竈氏は平姓を称していたようである*3

 

鎌倉初期~中期の千竈氏については、鈴木勝也の研究*4が詳しい。

すなわち、『吾妻鏡』建久元(1190)年11月7日条には、源頼朝の上洛に従った後陣の随兵の十七番の一人に「近間太郎」の記載が見られるが、その読み方から「千竈太郎」であると考えられており*5、これが史料上での初見とみられる。

また、同じく『吾妻鏡』承久3(1221)年6月18日条には、いわゆる承久の乱において、同月14日に宇治川を渡河した際の幕府側での戦死者(多くは溺死)に「千竈四郎 同新太郎」が含まれており*6、特に千竈新太郎はまだ存命であった千竈太郎と区別されての呼称と思われる。鈴木氏は、尾張国御家人の多くが京との結び付きが強い関係から後鳥羽上皇方についたのに対し、千竈氏一族はその例外であり、その後得宗被官化する契機になったのではないかと説かれており、恐らく次の史料が出された頃の弘安年間までには被官として薩摩国川辺郡に活動の舞台を移していったものと推測されている*7。 

【史料B】弘安2(1279)年4月11日付「六波羅御教書案」(『大隅台明寺文書』)*8

去年三月之比、所被流遣硫黄嶋之殺害人松夜刄丸 南都児童 有可被尋子細、就雑色友貞、早速以守護次〔ママ〕、可被進也、仍執達如件、

弘安二年四月十一日  左近将監* 在御判  *六波羅探題南方・北条時国

            陸奥* 在御判  *六波羅探題北方・北条時村

千竈六郎入道殿

在口裏 千竈六郎入道殿  陸奥守時村

この史料の宛名「千竈六郎入道殿」は当時の千竃氏嫡流の当主であったとみられ、後述【史料A】における「故入道殿」と同人で、時家の父親にあたる人物とみられる*9

 

千竈時家の譲状と烏帽子親について

【図A】千竃氏系図での時家については、次の史料3点により実在が確認できる。

【史料C】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家処分状」(『千竈文書』)*10より一部抜粋

*文中 白色部分 は欠損部分。

 

ゆつりわたす(譲り渡す) そふん(処分)の事

ちやくし(嫡子)六郎貞泰かふん(貞泰が分)

(省略)

次男 弥六経家 かふん

(省略)

三男 くまやしや丸 かふん(熊夜叉丸が分)

(省略)

女子 ひめくま かふん(姫熊が分)

(省略)

女子 いやくま かふん(弥熊が分)

(省略)

 

右そふん、くたんのことし(件の如し)、めんヽのゆつりしやう(面々の譲状)にまかせて、ゐろんなくちきやうすへし(異論無く知行すべし)、かきりある御ねんく・御くうし限りある御年貢・御公事)けたい(懈怠)あるへからす(有るべらかず)、もしわつらひをなさんともから(患いを成さん輩)におきてハ、時家かあと一ふん(時家が跡一分)も知行すへからす(知行すべらかず)、領内にもなかくけいくわいせさすへからす(長く経廻せさすべらかず)、そのあとハそうりやうさたやすちきやうすへし(惣領貞泰知行すべし)、そうりやう又へちなうのふん(別納の分)をゐらんいたさハ(違乱致さば)、次男経家・三男くまやしや丸、そのあとをことヽ くとうふん(悉く等分)わけ知行すへし(分け知行すべし)

今の同日一れん(一連)のゆつり(譲り)のほか、もしいつれの方よりもいたさん(いずれの方よりも致さん)状におきてハ、謀書たるへし(べし)、これをもちゐへからす(用いべらかず)、兼又ときいゑにきやうはいのやから(向背の輩)あまた(数多)あり、なかく領内けいくわいせさすへからす、もしこれをゆるさん子とも(子共)におきてハ不孝たるへし、同そのあとハ、この状文をかたくまもらん(固く守らん)子息等ちきやうすへし(知行すべし)、又ときいゑかおいとも時家が甥共)に當時はからいあつるところヽ(当時計らい当つる所々)、さしたるさいくわ(然したる罪科)なからんにハ、ゆめヽあらためゐらんいすへからす(努々改め違乱致すべらかず)、もしかの(もし彼の)仁等ふてう(不調)の事いてき(出(いで)来)たらむ時ハ、きやうたい(兄弟)よりあひ(寄合)てたんきをくわへて(談議を加えて)、さいくわ(罪科)をはからふへし、一人さうなく(左右無く)これをさたすへからす(沙汰すべらかず)、よりて(仍りて)のちのため處分のしやう(処分の状)、くたんのことし(件の如し)

嘉元四年四月十四日  時家(花押)

 

こ入道とのゝしひち(故入道殿の自筆)のいましめのしやう(誠状)一つう(一通)これあり、ちやくしたるうへハ(嫡子たる上は)六郎かもとにをきて(六郎が許に於きて)、もしのわつらひもあらん時ハ、いつれの子とも(いずれの子供)の方へもこれをわたすへし(渡すべし)

この状ハ、三つうおなしやうにかきおく三通同じ様に書き置く)ところなり、六郎弥六熊夜叉丸一つうつゝわかちとるへし、(花押)

 

【史料D】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家譲状」(『千竈文書』)*11

ゆつりあたふ(譲り与ふ)ちかまの弥六経家に、おハりの国尾張国ちかまの郷内ふとうのきうち(地頭垣内*12の田畠、弥六経家にゆつりあたふるところなり、安堵御下文ハ嫡子六郎貞泰か方へつけわたす、要用之時ハ、可借用之、仍譲状如件、

嘉元四年四月十四日  左衛門尉時家(花押)

 

【史料E】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家譲状」(『千竈文書』)*13

(花押:北条貞時

(外題)

「件村々任此譲状 熊夜叉丸可令

 領掌之状如件、

     嘉元四年七月十七日」

ゆつりあたふ(譲り与ふ)ちかまの熊夜叉丸に、さつまの国薩摩国かハのへのこほり河辺郡の内、のさきの村(野崎村)・ひらやま村(平山村)・かミやまたの村(上山田村)・大とまりの津(大泊津)、用作分ひらやまに壱丁(平山に一丁)、嶋の分七嶋、かのところヽ(所々)熊夜叉丸にゆつりあたふるところなり、かきりあらん限りあらん)御年貢・御公事けたい(懈怠)あるへからす(有るべらかず)、仍譲状如件、

嘉元四年四月十四日  左衛門尉時家(花押)

これらの時家による譲状では、嫡男・貞泰に「きかいしま(鬼界島)、大しま(大島)」等を、次男・経家に「えらふのしま沖永良部島」を、3男・熊夜叉丸*14に七島を、女子ひめくまに「とくのしま」をと、分割して譲るとしている。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

史料での人物の名乗りに着目すると、時家が「左衛門尉」に任官済みであったのに対し、嫡男・泰は、当時の得宗・北条時の1字を受けて元服したばかりであったからか「六郎」と称するのみであったことが分かる。従って、親子の年齢差を考慮すれば、当時の時家は若くとも30代半ば程度であったと考えられる

一方【史料B】で前述した通り、時家の父とされる「千竈六郎入道」は弘安2(1279)年までに無官のままで出家していたことが窺え、当時は30歳前後であったのではないかと思われる。よってこの時の時家元服前後の少年であったと推測される。

 

従って、「」の「」は執権・北条氏の通字を賜ったものと考えられるが、貞時の先代にあたる8代執権・北条(執権在職:1268年~1284年*15からの偏諱であろう。時宗の死から僅か7年後にあたる『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条に、この日の新日吉社五月会流鏑馬3番の射手として記載の人物は「干電二郎平家時」と読まれている*16が、千竃二郎平時家」の誤記・誤読ではないかと思われる。年齢的には21~22歳位となり、左衛門尉任官の直前であったと推測される。

 

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▲【図F】筆者作成・千竃氏推定系図*17

 

(参考ページ)

 千竈氏 - Wikipedia

 

脚注

*1:『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ六』(1996年)P.425~426『千竃文書』二四号「平氏系図」を基に作成。一部『尊卑分脈』〈国史大系本〉第四篇 や 秩父氏 - Wikipedia  #系図 と比較して異なる箇所については〔 〕で別名を記すか、赤字で修正・追加を施している。尚、緑字は『尊卑分脈』に記載のない情報である。

*2:重能の偏諱を受けたとされる葛貫能隆河越重頼の父)についても「義隆」と表記されており、単に「よし」という読みが同じ「能」と「義」の表記違いと判断できる。

*3:江戸時代中期の歴代当主を載せる、注1前掲『鹿児島県史料』P.422~424『千竃文書』二三号「千竃氏系図」では「平家良―家正―家尚―家包―家教―正賢―嘉包」と記載されている。

*4:鈴木勝也「中世尾張千竃氏に関する一考察 惣領制の観点からー」(所収:『皇學館論叢』第43巻第1号、皇学館大学人文学会、2010年)。

*5:前注鈴木氏論文 P.11。

*6:前注鈴木氏論文 P.12。

*7:前注同箇所。

*8:『鎌倉遺文』第18巻13550号。村井章介「中世国家の境界と琉球蝦夷(所収:村井章介佐藤信・吉田伸之 編『境界の日本史』 山川出版社、1997年)P.119~120。

*9:前注村井氏論文 P.120、同鈴木氏論文 P.20 注(14)。

*10:注1前掲『鹿児島県史料』P.411~413『千竃文書』一号。『鎌倉遺文』第29巻22608号。注4前掲鈴木氏論文 P.3~6。注8前掲村井氏論文 P.109~111。

*11:注1前掲『鹿児島県史料』 P.413『千竃文書』二号。『鎌倉遺文』第29巻22609号。注4前掲鈴木氏論文 P.7。

*12:この部分について、注4前掲鈴木氏論文 P.7~8によると『鎌倉遺文』での「(ぢ)とうかきうち」の判読が正しいとする。

*13:注1前掲『鹿児島県史料』 P.413『千竃文書』三号。『鎌倉遺文』第29巻22610号。注4前掲鈴木氏論文 P.7。注8前掲村井氏論文 P.110。

*14:3通書状が出された段階ではまだ元服前で幼名を名乗っていたことが分かる。【図A】で時家の子に筆時(法名本阿)が載せられていることもあってか、この熊夜叉丸は、のち室町時代初期に現れる「千竈彦六左衛門入道本阿」のこととされている(→注8前掲村井氏論文 P.108)。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*16:『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条

*17:自称の可能性もあるため、桓武平氏秩父氏の末裔であるという【図A】の情報をそのまま信ずるにも慎重になるべきだが、注3で示したが如く平姓を称していたことは事実のようなので、実際の祖先が誰かにかかわらず、千竃氏自身に伝承されていた系譜を再現したものとする。そのため、この系図については今後検討の余地があり、後考を俟ちたいところである。