Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

工藤時光

工藤 時光(くどう ときみつ、生年不詳(1250年代後半?)~没年不詳(1325年頃?))は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。 

出家後は工藤二郎右衛門入道と称し(「南家伊東氏藤原姓大系図」)、その法名である工藤杲禅(こうぜん、旧字体:杲禪)、工藤杲暁(こうぎょう、旧字体:杲曉)で知られる。子に工藤貞祐

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▲【図1】工藤杲禅(時光/杲暁)の花押*1

 

 

烏帽子親の推定

「南家伊東氏藤原姓大系図」については、飯田達夫翻刻を紹介されながら*2、当初はその成立時期への先入観からか、『北条氏系譜人名辞典』では工藤杲禅(杲暁)について「実名不詳」とする*3等あまり注目されることは無かったように見受けられるが、近年「大系図」について今野慶信の論文*4で大きく取り上げられ、それにより杲暁が工藤高光(たかみつ)の次男(資光の弟)で俗名=「時光」であることが判明した*5

 

父・工藤高光

父の高光について、今野氏の論文ではその父(杲暁の祖父)・重光と同様に史料上でその実名は確認できず、「彼はもっぱら次郎左衛門尉として馬引を務めるのみで正月椀飯の座には列席していない」ことから「一般の御家人扱いではなく、得宗家の下級被官」であったと説かれている*6。『吾妻鏡』の一部を参照されただけなのか、出典は明らかにされていないが、実際には『吾妻鏡人名索引』で調べると何度も「工藤次郎左衛門尉高光」等の名で登場していることが分かる(下表参照)。

 

【表2】『吾妻鏡』における工藤高光の登場箇所*7

月日 表記
建長4(1252) 4.1 工藤左衛門尉高光
建長6(1254) 1.1 工藤次郎右〈左〉衛門尉高光
康元元(1256) 1.1 工藤次郎左衛門尉高光
正嘉元(1257) 1.1 工藤次〈二〉郎左衛門尉高光
2.26 工藤左衛門尉高定〈高光〉
正嘉2(1258) 1.1 工藤次郎左衛門尉高光
1.2 工藤次郎左衛門尉高光
文応元(1260) 1.1 工藤次郎左衛門尉高光
文永2(1265) 1.1 工藤次郎左衛門尉

 

【表2】で示した『吾妻鏡』は文永3(1266)年までで途切れてしまうので、高光のその後については不明であるが、時宗執権期間に高光→時光(杲禅)への世代交代があったことは確実であろう。

 

兄・工藤祐光

高光の長男・資光(すけみつ)については史料で確認できないが、ほぼ同時期に工藤六郎祐光(すけみつ)の活動が見られ、今野氏は名前の読みの共通から同一人物と判断されている*8。祖父「工藤六郎左衛門」重光の仮名を継承して「六郎」を名乗ったのであろう。『吾妻鏡』での登場箇所は次の通りである。

 

【表3】『吾妻鏡』における工藤祐光の登場箇所*9

月日 表記
寛元4(1246) 1.6 工藤六郎
10.16 工藤六郎祐光*10
宝治2(1248) 1.1 工藤六郎左衛門尉
建長2(1250) 5.1 工藤六郎左衛門尉
建長3(1251) 8.24 工藤六郎左衛門尉

 

寛元4年は北条時頼が5代執権となった年でもあるが、当時は「六郎」と名乗るのみで無官であったことが窺える。翌年中には左衛門尉に任官したものと見受けられるが、その任官年齢を考えると20代と若年であったと思われる。

 

工藤時光の一字拝領

従って、祐光の弟(高光の次男)であるの「」は北条氏得宗家から通字を賜ったものとみられるが、年代的に、頼 または その嫡男・北条(8代執権)のいずれかの偏諱が想定される。

ところが、"実名不詳" とされていたように、出家後の「杲禅」として現れるまでに在俗中の実名である「時光」こそ史料上で確認ができない。もし時頼の烏帽子子であれば、その後の時宗執権期間、高光に代わって1回くらい現れても良い気がするが、そうでないということは、時宗執権期間に元服を遂げたが、間もなく出家した可能性が考えられよう。今野氏は「出家はおそらく弘安7年(1284年)の北条時宗(道杲)の出家に伴うもの*11と推測しており、この文言からしても「)」の「」字は時宗が死の直前に出家した際の法号である「」にあやかったものとみなせる。同様にして「杲」字を用いた人物としては、同じく得宗被官であった平頼綱(法名:円)が挙げられる。

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時宗執権期間での元服の根拠としては、嫡男・ 貞祐が1283年生まれと推測されること、詳しくは後述するが杲暁(時光)自身も元亨3(1323)年までの存命が確認できることの2点が挙げられる。 

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仮に兄・祐光と同じく1240年代半ば頃の元服とした場合、貞祐は杲暁40歳近くの時の子となってしまい年齢が離れ過ぎている感じが否めず、更に元亨3年当時80歳近くに達することになるが、全くあり得ないということもないが、当時としては長寿過ぎるようにも感じる。

一方、貞祐との年齢差を20歳とした場合、杲暁は1263年生まれとなり元服の時期は北条時宗執権期間内と確定する。この場合でも元亨3年当時60歳(還暦)に達するから、1263年よりさほど遡らない時期の生まれと考えるのが妥当ではないか。

よって杲暁の生年は1250年代後半~1260年頃と推測される。従って「」字を与えた烏帽子親は北条であろう。この時宗との関係が親密だったのか、時宗の死に際しても20代後半と若年ながらこれを悼んで出家し、その法名の一字「」を使い続けたことになるが、北条高時の出家に追随した京極導誉(高氏)に似た事例だったのであろう。

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史料上での工藤杲禅/杲暁

繰り返しになるが、杲暁の活動が見られ始めるのは出家した後からである。貞祐が幼少で、自身もまだまだ若かったからであろう、特に北条貞時(9代執権)執権期間においては出家の身ながら若狭国守護代を務めるなど活動が顕著であったことが窺える。

*尚、以下紹介する史料の中には「」を「」とするものがあるが、誤記・誤写または誤読とみなし、適宜修正した。

 

【史料4】弘安8(1285)年:

(4-A)『若狭国守護職次第』若狭国得宗・貞時の分国となり、「(~より)弘安八年。御代官(=守護代工藤右衛門入道杲禪。曉。」となる。

(4-B)『若狭国今富名領主次第』若狭国今富名領主=貞時の「御代官工藤右衛門入道杲禪 初杲禪。後に弘安九年改杲曉。弘安八年四月一日より正安三年三月九日まで。」

 

【史料5】弘安9(1286)年12月5日付「北条貞時寄進状(『相州文書所収 法華堂文書』)*12

御劔入状公朝状

右大将家御劔 鬚剪後御上洛之時(=建久6(1195)年)、依或貴所御悩為御護被進之、其後被籠或霊社之処、陸奥入道真覚〔ママ、覚真〕令尋取之云々、去年十一月合戦之後、不慮被尋出之間、於殿中被加装束或作、為被籠法花堂御厨子、以工藤右衛門入道杲禅、昨日被送之、入赤地錦袋、仍令随進、奉籠御堂之状如件

 弘安九年十二月五日 貞時

  別当法印公朝

 

【史料6】弘安11(1288=正応元)年正月日付「若狭谷田寺院主重厳言上状案」(『若狭谷田寺文書』)*13

(端裏付箋)「  歎願書下書 一通
       北条武蔵守義政〔ママ*14公ニ訴ヱシモノ」

若狭国税所御領谷田寺院主僧重厳謹言上
 為同国税所御代官工藤右衛門入道殿、追前御代官山城前司入道(=伊賀光政)殿非儀例、依被勘落当寺免田壱町余、為公田間、堂社悉及大破顛倒上□〔者〕、早垂御哀憐、如旧有御寄進、欲被遂修造功子細事、
副進
 一通 国検目録除田案  文永二年
 一通 所当勘文案    弘安八年
右当寺者、天武天皇御宇白鳳年中、為泰澄大師建立、当国中□□〔第二〕御願所、年序既及数百歳畢、自草創之初、料田壱町余御寄進之□〔間〕、□□□□□〔致修功之処〕、前御代官山城前司入道殿之時、始依被顛倒、寺僧等雖歎申、敢無□□〔叙用〕、□□〔而去〕弘安八年得替畢、其後渋谷十郎入道(=恒重)殿代官(三栖)家継実検之時、雖訴申之、不用之、被結入目録之間、訴申当御代官工藤右衛門入道殿之処、称被結入上進文書、追非分例、不被裁許之間、恐々所言上也、且為散御不審、□□□□□□□〔国検状案進覧之〕、倩見彼寺為躰、本堂一宇 五間四面本尊千手 鎮守宮一宇 一間二面御垂跡日吉熊野金峯 同拝殿一宇 五間二面 温屋一宇 三間三面 二階楼門等已上五宇也、而被顛倒料田、及大破之条、争無御計哉、将又当国上下宮・正八幡宮者、有限莫大料田之外、任関東御教書旨、為国造営致修造者也、何限彼寺被顛倒料田無修造御計哉、可然者於料田者、如元有御寄進、為上裁為被修造、恐々言上如件、
  弘安十一年正月 日

(*https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/02/text/O051400001.txt より引用)

 

【史料7】(正応4(1291)年8月20日)「関東評定事書」(『新編追加』)*15

一.寺社并京下訴訟事 正応四。八。廿。

急可申沙汰之由。可被仰奉行人并五方引付。此上令延引者。可触訴飯沼大夫判官助宗〔資宗〕。大瀬左衛門尉惟忠。長崎左衛門尉光綱。工藤右衛門入道杲禅〔左 脱字カ衛門尉宗綱歟。

 

【史料8】正応5(1292)年10月13日付「執権北条貞時公文所奉書案」(『東寺百合文書』リ)*16の宛名に「工藤右衛門入道殿」。

 

【史料9】永仁4(1296)年3月日付「若狭汲部多鳥浦刀祢百姓和与状写」(『若狭秦金蔵氏文書』)*17の宛名に「工藤右衛門入道殿」。

 

【史料10】正安元(1299)年7月11日付「北条貞時書状」(『相模法華堂文書』)*18の宛名に「隠岐前司(=二階堂泰行)殿 工藤右衛門入道殿」。

 

【史料11】『若狭国守護職次第』内管領北条宗方若狭国守護となり、「正安元年。御代官(=守護代(工藤左衛門入道妙覚」。すなわち、正安元(1299)年を以って守護代が交代したことが分かる。 

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【史料12】正安3(1301)年3月9日付「得宗公文所奉行人連署奉書」(『摂津多田神社文書』)*19の奉者第一位「杲勝」。花押の一致から工藤杲暁(時光)に同定される*20。誤読か、或いは再び法名を改めた可能性もある。

尚、『若狭国今富名領主次第』によれば、同じく3月9日まで若狭国今富名の領主代官であったという(→前述史料4-B参照)。後任は「工藤次郎右衛門尉貞祐 杲曉の子そく〔子息〕。正安三年十月より正中元年九月迄。」 。 

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【史料13】(嘉元2(1304)年)9月3日付「左衛門尉某 書状写」(『若狭秦金蔵氏文書』)*21の文中に「……依出和与状、工藤右衛門入道殿被成下知了、……」とあり。

 

【史料14】(嘉元2年?)12月2日付「小槻国親書状」(『若狭秦金蔵氏文書』)*22の文中に「……随地頭工藤右衛門入道殿代官弥五郎入道之時も……」とあり。

 

【史料15】『鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条*23より北条時村殺害犯の一人、和田茂明を三浦介入道(=三浦時明)に預ける際の使者。

今年嘉元三……四月……廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明、預三浦介入道、使工藤右衛門入道茂明逐電了、工藤中務丞有清、遠江入道(=名越時基?)、使諏方三郎左衛門尉、豊後五郎左衛門尉光家、陸奥守、使大蔵五郎兵衛入道、海老名左衛門次郎秀綱、足利讃岐入道、使武田七郎五郎、白井小次郎胤資、尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、五大院九郎高頼、宇都宮下野守、使広沢弾正忠、土左衛門四郎長忠、相模守、使佐野左衛門入道、井原四郎左衛門尉盛明、掃部頭入道、使粟飯原左衛門尉、比留新左衛門尉宗広、陸奥守、使武田三郎、甘糟左衛門太郎忠貞、預兵部大輔、使工藤左近将監、岩田四郎左衛門尉宗家、相模守、使南条中務丞、土岐孫太郎入道鏡(=定親)武蔵守、使伊具入道、同月四日、駿河守宗方被誅、討手陸奥守宗宣下野守貞綱、既欲攻寄之処、宗方聞殿中師時館、禅閤(=北条貞時入道崇演)同宿、騒擾、自宿所被参之間、隠岐入道阿清宗方被討訖、宗方被管〔被官〕於処々被誅了、於御方討死人々、備前掃部助貞宗信濃四郎左衛門尉、下条右衛門次郎等也、被疵者八人云々、同十四日、禅閤并相州師時武蔵守久時亭、今日禅〔評〕定始、七月十六日、金寿御前逝去訖、

 

【史料16】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*24:鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*25)」の結番12番筆頭。

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 二 番

  工藤次郎右衛門尉  粟飯原左衛門尉

(中略)

  十二番

  工藤右衛門入道  五大院左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

  

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その後は工藤次郎右衛門尉貞祐の活動が本格化し、年齢的な問題で身を引いていったのか、杲暁は史料上に現れなくなるが、僅かに、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、一品経(妙音品 10貫)の調進、砂金50両・銀剣・馬一疋の供養等を行う「工藤二郎右衛門尉」とは別に、銭20貫文・馬一疋を進上する人物として「工藤右衛門入道」の記載があり(『北條貞時十三年忌供養記』)*26、この時まで存命であったようである。この法要から数年の間には亡くなったのではないかと推測される。 

 

(参考ページ)

 工藤時光 - Wikipedia

 

脚注

*1:北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001年)P.76「工藤杲禅」の項(執筆:末木より子)より。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)。

*3:注2同箇所。

*4:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。

*5:正確には高光の次男・時光に「二郎右衛門入道 法名果暁〔杲暁〕」と注記される。

*6:注4前掲今野氏論文 P.114。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.164「高光 工藤」に基づき作成。尚、本項作成にあたっては 第5刷(1992年)を使用。

*8:注4前掲今野氏論文 P.115。

*9:吾妻鏡人名索引』P.406「祐光 工藤」に基づき作成。

*10:『大日本史料』5-20 P.441

*11:注6同箇所。

*12:『鎌倉遺文』第21巻16066号。髭切 - 名刀幻想辞典

*13:『鎌倉遺文』第21巻16497号。

*14:この頃の武蔵守就任者は、北条(塩田)義政(1273-1277)、北条宗政(1277-1281)、北条時村(1282-1304)(→ 武蔵国司 - Wikipedia #武蔵守)。

*15:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第23巻17664号。

*16:『鎌倉遺文』第23巻18030号。リ函/19/2/:北条貞時公文所奉書案|文書詳細|東寺百合文書

*17:『鎌倉遺文』第25巻19035号。

*18:『鎌倉遺文』第26巻20164号。

*19:『鎌倉遺文』第27巻20726号。

*20:小泉聖恵「得宗家の支配構造(研究)」(所収:『お茶の水史学』第40巻、お茶の水女子大学比較歴史学講座読史会、1996年)P.42 脚注(38)。

*21:『鎌倉遺文』第29巻21975号。

*22:『鎌倉遺文』第29巻22044号。

*23:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1979年)P.59。

*24:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*25:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。

*26:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.710。