Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

狩野貞親

狩野 貞親(かのう さだちか、1280年代?~没年不詳(1333年以後))は、鎌倉時代後期の武士、伊豆・駿河国御家人。通称は六郎左衛門尉、狩野介、狩野介入道。

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▲【図A】今野慶信作成による狩野氏の略系図*1

 

近年、今野氏が「南家伊東氏藤原姓大系図*2の中の伊東氏以外の部分について、他史料との照合によりその記載に信憑性があることを紹介された。

上図はそのうち狩野氏についてまとめられたものであるが、工藤(狩野)茂光の子・五郎親光の系統についても(家光を経た)「光―親―親」に歴代得宗頼―宗―時)の偏諱を受けた痕跡が見られることから、事実上得宗被官化し、伊豆国から移り駿河国安倍郡を本拠として「狩野介」の称号を復活させたと説かれている*3

 

狩野貞親については、次の史料で実在が確認できる*4

【史料B】正和元(1312)年7月28日付「狩野貞親和与状案」(『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」所収)*5

越生七郎光氏狩野六郎左衛門尉貞親而令相替所領石見国加志岐波別府伴三郎実保跡五分一事

越生七郎光氏所領武蔵国越生郷内岡崎村田畠・在家等、指令相替処也、仍坪付在名有之、然者、貞親所領加志岐波別府五分一、可被知行者也、如此相互永代令契約之上者、守此状、可知行之状如件、

  正和元年七月廿八日 左衛門尉貞親

建治元(1275)年、石見国御家人・伴実長(有富実長)の所領=同国那賀郡加志岐別府(有福)が分割相続されたが、このうち伴実保(有富実保)の旧領は幕府に一旦没収された上で貞親の手に渡っていた。やがてもう一方の後家・庶子分にも介入したため、伴氏側との間で訴訟が起きたにもかかわらず、貞親は加志岐別府を越生光氏の所領=武蔵国岡崎村と交換したのであった。図式化すると次の通りである。 

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▲【図C】狩野貞親をめぐる所領問題

 

(参考ページ)

井上寛司「中世の江津と都野氏」(所収:『山陰地域研究』第3号、1987年)P.7・P.18

原慶三「益田氏系図の研究 ー中世前期益田氏の実像を求めてー」(所収:『東京大学史料編纂所研究紀要』第23号、2013年)P.34

西村安博「論説 鎌倉幕府の裁判における和与状と和与認可裁許状について ー対象史料の整理を中心にー」(所収:『法政理論』第32巻第1号、1999年)P.24

都野氏と都野郷

解説ページ:越生郷(中世) ー『角川地名大辞典』

 
ここで着目したいのがその名乗りであるが、まだ左衛門尉在任であった様子が窺える。すなわち、父・時親がまだ存命で "狩野介" を継承していなかったことになる。左衛門尉任官に相応の年齢を考えるとこの時20~30代であったとみなすのが良いと思われるので、生年は1280~1290年代と推定できよう。

前述の通り「」の実名は北条偏諱を受けたものとみられるが、【史料B】の前年まで存命であった貞時からその1字を許されていたことになる。前述の生年に基づけば、元服の時期は正安3(1301)年8月までの第9代執権在任期間*6内であった可能性が高く、貞時の加冠を受けたものと判断される。  

 

貞時との関係を窺わせる活動として、『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)によると、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養において「狩野介」が「銭三十貫文」を進上している*7が、これを貞親に比定する今野氏の説*8に同意である。この時までに父・時親の河内守昇進に伴い狩野介を譲られていたのであろう。

 

その後、鎌倉時代末期には後醍醐天皇方に対する幕府軍のリスト中に「狩野介入道」の名が確認できる(下記【史料D】)が、今野氏の仰る通りこれも貞親であろう。時期的に考えると、正中3(1326=嘉暦元)年3月の14代執権・北条高時の出家に追随した可能性が考えられる。尚、同じ軍勢には同族とみられる「狩野彦七左衛門尉」も属して参戦している。

 

【史料D】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)    □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)        遠江前司
 武田伊豆守(信宗?)      三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)      狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道           信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
 

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

その裏付けとして、鎌倉幕府の滅亡より数年が経った、延元元(1336=建武3)年4月「武者所結番交名」(『建武記』)の三番に「狩野介 貞長」とあるのが確認できる*10が、この狩野貞長は「貞」字の共通や年代を考慮して貞親の出家に伴う後継者(嫡男)と推測される。次の得宗である高時の偏諱を受けていないのは、その出家後の元服であったためなのかもしれない。

 

 

脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.119。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.118~119。

*4:注1前掲今野氏論文 P.118。

*5:『萩藩閥閲録』(毛利元徳氏原蔵、東京大学史料編纂所謄写本)巻121-4。『鎌倉遺文』第32巻24626号。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*8:注1前掲今野氏論文 P.119。

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*10:『大日本史料』6-3 P.332