Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

狩野時親

狩野 時親(かのう ときちか、生没年未詳)は、鎌倉時代中・後期の武士、御家人

通称は六郎左衛門尉、狩野介。

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▲【図A】今野慶信作成による狩野氏の略系図*1

 

近年、今野氏が「南家伊東氏藤原姓大系図*2の中の伊東氏以外の部分について、他史料との照合によりその記載に信憑性があることを紹介された。

上図はそのうち狩野氏についてまとめられたものであるが、工藤(狩野)茂光の子・五郎親光の系統についても(家光を経た)「光―親―親」に歴代得宗頼―宗―時)の偏諱を受けた痕跡が見られることから、事実上得宗被官化し、伊豆国から移り駿河国安倍郡を本拠として「狩野介」の称号を復活させたと説かれている*3。 

 

【史料B】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*4

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

(前略)

十 番
  長崎左衛門尉(盛宗?)  尾藤六郎左衛門尉(頼氏か)
  長崎後家       権医博士
  狩野介        尾張権守
  矢野民部大夫(倫綱?)  粟飯原右衛門四郎

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*5)」の結番を定めたものであり、今野氏は10番の一人「狩野介」を時親に比定されている*6

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

【図A】で「狩野介」と注記されるのは時親・貞親の2代のみであるが、上記記事▲で紹介している通り、嫡男・貞親については正和元(1312)年の段階でまだ「狩野六郎左衛門尉」と名乗っていたことが、同年7月24日付「狩野貞親和与状案」(『摂津満願寺文書』)*7で明らかとなっているから、前述の今野氏の説は正しいと判断できよう。 

 

脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.119。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.118~119。

*4:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*5:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。

*6:注1前掲今野氏論文 P.118。

*7:『鎌倉遺文』第32巻24626号。