狩野時親
狩野 時親(かのう ときちか、生没年未詳)は、鎌倉時代中・後期の武士、御家人。
通称は六郎左衛門尉、狩野介。
近年、今野氏が「南家伊東氏藤原姓大系図」*2の中の伊東氏以外の部分について、他史料との照合によりその記載に信憑性があることを紹介された。
上図はそのうち狩野氏についてまとめられたものであるが、工藤(狩野)茂光の子・五郎親光の系統についても(家光を経た)「時光―時親―貞親」に歴代得宗(時頼―時宗―貞時)の偏諱を受けた痕跡が見られることから、事実上得宗被官化し、伊豆国から移り駿河国安倍郡を本拠として「狩野介」の称号を復活させたと説かれている*3。
【史料B】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*4
(前略)
十 番
長崎左衛門尉(盛宗?) 尾藤六郎左衛門尉(頼氏か)
長崎後家 権医博士
狩野介 尾張権守
矢野民部大夫(倫綱?) 粟飯原右衛門四郎
(以下略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*5)」の結番を定めたものであり、今野氏は10番の一人「狩野介」を時親に比定されている*6。
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【図A】で「狩野介」と注記されるのは時親・貞親の2代のみであるが、上記記事▲で紹介している通り、嫡男・貞親については正和元(1312)年の段階でまだ「狩野六郎左衛門尉」と名乗っていたことが、同年7月24日付「狩野貞親和与状案」(『摂津満願寺文書』)*7で明らかとなっているから、前述の今野氏の説は正しいと判断できよう。
脚注
*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.119。
*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。
*3:注1前掲今野氏論文 P.118~119。
*4:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*5:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。
*6:注1前掲今野氏論文 P.118。
*7:『鎌倉遺文』第32巻24626号。