Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

毛利貞親

毛利 貞親(もうり さだちか、1280年頃?~1351年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。安芸毛利氏。父は毛利時親

 

[:contents]

生年と烏帽子親の推定

【史料A】建武3(1336)年正月30日付「毛利貞親自筆譲状」(『毛利家文書』)*1

譲与安芸国吉田郷者、自祖父寂佛(=経光、後述参照)之手、亡母 亀谷局 譲与、文永之譲状、同副状等在之、仍貞親所譲給也、然者、先吉田郷計師親譲給者也、不可有他妨、有限年貢等可令進済、仍譲状如件、

  建武三年正月晦日  貞親(花押)

史料中の「(もろちか)」は高尾張守、のち越後守)の加冠により元服した貞親の孫・毛利元春の初名である*2。すなわち、この史料は貞親が孫・毛利師親(元春)に安芸国吉田郷を譲るとしたものである。師親はこの2年前に13歳で元服したばかりであり*3、祖父―孫の年齢差を考えれば【史料A】当時貞親は50代半ば以上であったと推測可能である。従って、逆算すると貞親の生年はおよそ1280年頃より前であったと考えられよう。

 

ここで次の史料も確認しておきたい。 

【史料B】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*4

  沙弥(=経光) 在判

ゆつりわたす所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄安芸国吉田庄)、ゑちこのくにさハしのしやう越後国佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛(=経光)さうてん相伝の所りやう也、しかる(然る)四郎時親、ゆつりわたす所也、この状まかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、

  文永七年七月十五日

この史料における「寂仏」は、前掲【史料A】で貞親自らが「祖父寂仏」と記していることから、『江氏系譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される毛利経光*5に比定される。すなわち、この【史料B】は経光入道寂仏が息子の時親に、相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を譲るとしたものである*6。この時、父・時親は「四郎」と名乗るのみであったことが分かるが、元服からさほど経っておらず無官であったためであろう。よって文永7年当時、時親は20歳行くか行かないかの若さであったと推測され、貞親はまだ生まれていなかったと考えられるので、毛利貞親の生年は1280年頃とするのが妥当と思われる。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

」の名乗りに着目すると、「親」が父・時親から継いだものであるから、わざわざ上(1文字目)に置いている「」が烏帽子親からの偏諱と判断される。これは、弘安7(1284)年4月に得宗家督および9代執権となった北条(1301年まで執権在職、1311年逝去)*7からの一字拝領に間違いなかろう。

 

 

南北朝時代における貞親

貞親については【史料A】以外にあまり史料が残されておらず、鎌倉時代における活動内容は不明である。鎌倉幕府滅亡後の動向については、『尊卑分脈』のほか、「毛利元春自筆事書案」の中に記載が見られる。以下、貞親に関するものをピックアップしてご紹介したいと思う。

冒頭系図・右近大夫貞親の注記:母長崎泰綱女号亀谷□〔局〕、為宮方籠山門建武〔三〕出家遁世、「歓〔観〕応二死去」*8

「一.元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近□□〔大夫〕貞親、於越後国、阿曽宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅感〔勅勘〕、惣領長井右馬助(=高冬)被預置畢、」*9

「一.此刻(=建武三年)、元春祖父右近大夫貞親、為 宮方、供□〔奉〕山門先皇(=後醍醐天皇御臨幸之時、出家仕 法名号朗乗*10

「一.宮内少輔入道、近江守、上総介等申本領之間事、祖父右近大夫貞親 法名朗乗 建武三年十一月出家遁世仕、……(以下略)」*11

「一.了禅(=毛利時親譲状等執筆毛利左近蔵人、後ニハ甲斐守法名寂雲(=毛利経親)、了禅カヲイ(了禅が甥)也、彼仁ヲチ(伯父)ノ帯譲、彼跡于今居住佐橋、内状一通他筆、其謂ハ、祖父右近大夫 法名朗乗 令同心、山門ニ籠之間也、遁世以後了禅方出之間、元春帯譲状、雖為後日書之、永和二五書之、*12

鎌倉幕府滅亡後の建武元(1334)年に越後国に於いて「阿曽阿蘇宮」*13と謀叛を企てたとの伝聞があったことにより、勅勘を蒙った貞親は大江氏一門の惣領であった長井高冬(挙冬)の許へ預けられ、同3年11月には「出家遁世」したという*14。但し、拘束された後に死罪となっていないことや、父・時親および息子・親茂に影響が及んでいないことから、実際には謀叛を企てたのではなく、全国各地で北条氏の残党の反乱が起きていたこの頃において、得宗被官・長崎氏出身の母を持つ貞親にも "同心した" との風聞が生まれたのではないかとされている*15

事実上、孫・師親(元春)が父・時親の後継者となっており、貞親はこの時の出家を以って隠退したものとみられるが、前述の通り、観応2(1351)年正月までは存命であったようである。 

 

(参考ページ)

 毛利貞親 - Wikipedia

 毛利貞親

 柏崎通信 『中鯖石村誌』第六章「沿革」続き

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号『大日本史料』6-3 P.46

*2:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)『尊卑分脈』

*3:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.23)

*4:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。

*5:『大日本史料』5-22 P.156『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3

*6:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*8:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.18)

*9:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)

*10:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.20)

*11:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.22)

*12:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.34)

*13:この「阿曽宮」が何者なのかについては詳細が明らかになっておらず、後醍醐天皇の皇子・懐良親王ではないかとする説もある(→ 南北朝列伝 ー 懐良親王)が、懐良が父に叛逆したというような史実は伝わっていないため、別人或いは誤伝とする見解もある(→ 一次史料を読もう!毛利元春自筆事書案(『毛利家文書』15―1号)第1〜2条: ステキな毎日)。

*14:この表現については、平雅行「出家入道と中世社会」(所収:『大阪大学大学院文学研究科紀要』第53号、2013年)P.3 ほかを参照のこと。

*15:毛利貞親 より。