毛利貞親
毛利 貞親(もうり さだちか、1280年頃?~1351年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。安芸毛利氏。通称および官途は次郎(『毛利家系図』)*1、右近大夫。法名は朗乗(ろうじょう)。
父は毛利時親。母は長崎泰綱の娘・亀谷局。
生年と烏帽子親の推定
【史料A】建武3(1336)年正月30日付「毛利貞親自筆譲状」(『毛利家文書』)*2
譲与安芸国吉田郷者、自祖父寂佛(=経光、後述参照)之手、亡母 亀谷局 譲与、文永之譲状(=後掲【史料B】)、同副状等在之、仍貞親ニ所譲給也、然者、先吉田郷計ヲ師親ニ譲給者也、不可有他妨、有限年貢等可令進済、仍譲状如件、
史料中の「師親(もろちか)」は高師泰(尾張守、のち越後守)の加冠により元服した毛利元春(貞親の孫)の初名である*3。すなわち、この史料は貞親が孫・毛利師親(元春)に安芸国吉田郷を譲るとしたものである。師親はこの前年(1335年)に13歳で元服したばかりであり*4、祖父―孫の年齢差を考えれば【史料A】当時貞親は50代半ば以上であったと推測可能である。従って、逆算すると貞親の生年はおよそ1280年頃より前であったと考えられよう。
ここで次の史料も確認しておきたい。
【史料B】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*5
沙弥(=経光) 在判
ゆつりわたす(譲り渡す)所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄(安芸国吉田庄)、ゑちこのくに(越後国)さハしのしやう(佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛(=経光)さうてん(相伝)の所りやう也、しかる(然る)を四郎時親ニ、ゆつりわたす所也、この状ニまかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、
文永七年七月十五日
この史料における「寂仏」は、前掲【史料A】で貞親自らが「祖父寂仏」と記していることから、『江氏系譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される毛利経光*6に比定される。すなわち、この【史料B】は経光入道寂仏が息子の時親に、相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を譲るとしたものである*7。この時、父・時親は「四郎」と名乗るのみであったことが分かるが、元服からさほど経っておらず無官であったためであろう。よって文永7年当時、時親は20歳行くか行かないかの若さであったと推測され、貞親はまだ生まれていなかったと考えられるので、毛利貞親の生年は1280年頃とするのが妥当と思われる。
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「貞親」の名乗りに着目すると、「親」が父・時親から継いだものであるから、わざわざ上(1文字目)に置いている「貞」が烏帽子親からの偏諱と判断される。これは、弘安7(1284)年4月に得宗家家督および9代執権となった北条貞時(1301年まで執権在職、1311年逝去)*8からの一字拝領に間違いなかろう。
南北朝時代における貞親
貞親については【史料A】以外にあまり史料が残されておらず、鎌倉時代における活動内容は不明である。鎌倉幕府滅亡後の動向については、『尊卑分脈』のほか、「毛利元春自筆事書案」の中に記載が見られる。以下、貞親に関するものをピックアップしてご紹介したいと思う。
【史料C】
● 冒頭系図・右近大夫貞親の注記:母長崎泰綱女号亀谷□〔局〕、為宮方籠山門建武□〔三〕出家遁世、「歓〔観〕応二正死去」*9
●「一.元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近□□〔大夫〕貞親、於越後国、阿曽宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅感〔勅勘〕、惣領長井右馬助(=高冬)ニ被預置畢、」*10。
●「一.此刻(=建武三年)、元春祖父右近大夫貞親、為 宮方、供□〔奉〕山門先皇(=後醍醐天皇)御臨幸之時、出家仕 法名号朗乗」*11
●「一.宮内少輔入道、近江守、上総介等申本領之間事、祖父右近大夫貞親 法名朗乗 建武三年十一月出家遁世仕、……(以下略)」*12
●「一.了禅(=毛利時親)譲状等執筆ハ毛利左近蔵人、後ニハ甲斐守法名寂雲(=毛利経親)、了禅カヲイ(了禅が甥)也、彼仁モヲチ(伯父)ノ帯譲、彼跡于今居住佐橋、内状一通他筆、其謂ハ、祖父右近大夫 法名朗乗 令同心、山門ニ籠之間也、遁世以後了禅方ニ出之間、元春帯譲状、雖為後日書之、永和二五書之、」*13
鎌倉幕府滅亡後の建武元(1334)年に越後国に於いて「阿曽(阿蘇)宮」*14と謀叛を企てたとの伝聞があったことにより、勅勘を蒙った貞親は大江氏一門の惣領であった長井高冬(挙冬)の許へ預けられ、同3年11月には「出家遁世」したという*15。但し、拘束された後に死罪となっていないことや、父・時親および息子・親茂に影響が及んでいないことから、実際には謀叛を企てたのではなく、全国各地で北条氏の残党の反乱が起きていたこの頃において、得宗被官・長崎氏出身の母を持つ貞親にも "同心した" との風聞が生まれたのではないかとされている*16。
事実上、孫・師親(元春)が父・時親の後継者となっており、貞親はこの時の出家を以って隠退したものとみられるが、前述の通り、観応2(1351)年正月までは存命であったようである。
補論:貞親の子息たちについて
加えて、貞親の男子についても簡潔に紹介しておこう。
毛利親衡(親茂)
生年不詳であるが、おおよその時期は推定可能である。
長男・元春(師親)が前述の通り、本人自筆の書状で建武2(1335)年に13歳で元服したことが明かされているので、逆算すると元亨3(1323)年生まれと分かる。
したがって、貞親と師親に挟まれている親茂(親衡)の生年は1300年頃とするのが妥当であろう。
建武4(1337)年正月16日付の了禅(時親)の譲状写(『毛利文書』)には「安芸国吉田荘地頭職」を「孫子 親茂」に譲り与えると記されている*17が、観応元(1350)年の書状では吉田荘にて「毛利備中守親衡」が「先代(=北条氏)一族相模治部権少輔」を大将として挙兵し没落したことが記されており*18、理由は不明ながら、祖先である大江匡衡、或いはその孫・大江成衡に由来するであろう「衡」の字を用いて改名している。
尚、前述「毛利元春自筆事書案」の別の箇所で息子の元春が以下のように記している*19。
●「去々年(=応安7年、下記参照)七月十九日、大内介入道々階(=大内弘世)、親父寶乗令同心、元春領内ニ打入………寶乗去年八月死去、……」
●「親父奥陸〔ママ、誤字〕入道寶乗、大内介入道発向芸州之間、……」
応安7(1374)年を「去々年」というので、この元春申状は【史料C】でも「永和二(年)五(月)書之(これを書く)」の記載がある通り、1376年に書かれたと判断されるが、元春の親父=親衡が出家して「宝乗(ほうじょう)」と号する前に備中守(従五位下相当)から陸奥守(従五位上相当)に転任していたことが窺える。
毛利宮内少輔入道道幸(親広?)
『尊卑分脈』には親茂の兄として近江守・宮内少輔が載せられるが、実名は明記されていない。また、前述「毛利元春自筆事書案」の別の箇所で「親父親衡、同舎弟宮内少輔入道、在国越後国、」と書かれ*20、【史料C】部分での「宮内少輔入道」も同人と判断されるが、記載の系図でも同様である*21。
ただ、『安国寺文書』所収の永和3(1377)年の書状4点に「(丹波国安国寺領)越後国鵜河庄内安田上方……当知行毛利宮内少輔入道々幸」*22とあって、これに比定されると思われるので、法名は道幸(どうこう)であったと見なされる。
この道幸は応安7(1374)年4月27日付の譲状で「越後国鵜川庄内安田条地頭職」を(息子とみられる)「修理亮朝広(ともひろ)」に譲り与えると書き残している*23。文中の「憲広(のりひろ)」も同じく道幸の子と考えられ、朝広(のち憲朝)・憲広に「広」の字(祖先・大江広元に由来か)が共通すること、時親以降の毛利氏の通字が「親」であったことから、史料的根拠に欠けるものの、道幸自身の俗名は「広親」或いは「親広」であったと推測されている*24が、筆者も同意である。庶子である、時親の弟(親忠・親宗)や貞親の弟(親元)の名乗り方からすると「親広(ちかひろ)」であった可能性が高いと思うので、これを仮名としておきたい。
毛利近江守(高親?)
父子・兄弟間での官位相当を調べてみる*25と、父の貞親が右近大夫(五位相当・三等官級)*26、兄弟の親衡が初め備中守(従五位下相当)、道幸(親広)が宮内少輔(従五位下相当・次官級)であったのに対し、近江守(従五位上相当・長官級)はそれらより上位の国守であるから、貞親の当初の嫡男だったのではないかと思われる。
実名不詳であるものの、恐らく親衡(親茂)や親広に対し「○親」型の名乗りであった可能性が高く、「時親―貞親」の前例に倣って得宗・北条高時の偏諱を受け「毛利高親(たかちか)」と名乗っていたのではないかと思われるが、史料的根拠に欠けるため、あくまで推論として掲げるに留めておく。新史料の出現を俟ちたいところである。
(参考ページ)
● 毛利貞親
脚注
*1:国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本。データベースれきはく 館蔵資料データベース > 館蔵高松宮家伝来禁裏本 > 資料名称「毛利家系図」で検索。
*2:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号。『大日本史料』6-3 P.46。
*3:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)。『尊卑分脈』。
*4:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.23)。
*5:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号。『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。
*6:『大日本史料』5-22 P.156。『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。
*7:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション。毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク。毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.18)。
*10:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)。
*11:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.20)。
*12:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.22)。
*13:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.34)。
*14:この「阿曽宮」が何者なのかについては詳細が明らかになっておらず、後醍醐天皇の皇子・懐良親王ではないかとする説もある(→ 南北朝列伝 ー 懐良親王)が、懐良が父に叛逆したというような史実は伝わっていないため、別人或いは誤伝とする見解もある(→ 一次史料を読もう!毛利元春自筆事書案(『毛利家文書』15―1号)第1〜2条: ステキな毎日)。
*15:この表現については、平雅行「出家入道と中世社会」(所収:『大阪大学大学院文学研究科紀要』第53号、2013年)P.3 ほかを参照のこと。
*19:『大日本史料』6-41 P.53、6-44 P.147。
*20:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.24)。『大日本史料』6-46 P.378。
*21:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)。
*25:http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse010.html より。
*26:右近大夫とは、右近衛将監(従六位上相当)で、五位に昇進した者の呼称であり(→ 右近大夫(ウコンノタイフ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)、叙爵したことが窺える。