渋川貞頼
渋川 貞頼(しぶかわ さだより、1280年頃?~1325年頃?)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。足利氏一門・渋川氏の第3代当主。
『尊卑分脈』*1によれば、通称は彦三郎、父は渋川義春、母は北条時広の娘「あかはん」(「越前守平時廣女」)と伝わる。源貞頼、足利貞頼*2とも。
記載の内容は『尊卑分脈』と一致する。父・義春、および祖父・義顕については、いずれも生没年不詳である。しかし、曽祖父にあたる足利泰氏が建保4(1216)年、その跡目となった叔父の足利頼氏が仁治元(1240)年生まれと判明している*4ので、義顕はおよそ1230年代半ば頃の生まれではないかと推測される。『尊卑分脈』には義顕の項に「本名兼氏」とあり、『吾妻鏡』での初見=寛元3(1245)年8月15日条「足利次郎兼氏」*5までに元服したことが窺える。従って、現実的な祖父―孫間の年齢差を考慮すればおよそ1270年代半ば以後の生まれと推定可能である。
外祖父の北条時広については、建治元(1275)年に54歳で亡くなったことが判明しており、逆算すると貞応元(1222)年生まれである*6。従って現実的な祖父―孫間の年齢差を考えれば、1262年頃よりは後に生まれたと判断できる。
また、嫡男・渋川義季についても建武2(1335)年に自害した時22歳であったことが『尊卑分脈』に書かれており、逆算すると正和3(1314)年生まれと分かる。従って親子の年齢差を考慮すれば、父である貞頼の生年はおよそ1294年以前であったと判断される。
以上の考察により、渋川貞頼の生年は1262~1294年の間と推定可能であるが、ここで前田治幸氏*7が紹介された、下記史料3点*8に着目しておきたい。
【史料B】永仁4(1296)年8月18日付「北条時広女譲状写」(『賀上家文書』)
むさしの國おほあさうの鄕(武蔵国大麻生郷)、ひたちの國おほくしの鄕(常陸国大串郷)、たぢまの國おほたのしやう(但馬国大田庄)、下のほうの下方(下保下方)、ならびにあかはなのむら(赤花村)、こどの(故殿?=渋川義春か?)の御ゆづり(譲り)にまかせて手継もん書(文書)ぐ(具)して三郎にゆづりわたす、ただしこれのけうやう(きょうよう)のために申を(置)きてて事さよいろぐさた(沙汰)させ可有候、
ゑいにん(永仁)四年八月十八日 あかはん
【史料C】正安?年3月13日付「将軍家政所下文写」(『賀上家文書』)
□□〔将軍〕家政所下
可令早源貞頼領知武蔵國大麻生鄕、同國佐江戸鄕肆分一(四分の一)、常陸國鄕内大串村、但馬國大田庄内下保下方 並 赤花村
右任已〔亡〕母平氏永仁四年八月十八日譲状等先例可致沙汰之状、所仰如件以下、
正安□□三月十三日 案主 菅野知家事
*正安年間は1299~1302年*9。貞時が執権、宣時が連署であることから、行藤も含め3人が出家した正安3(1301)年8月22日までの古文書であることが分かる(次の執権は相模守・北条師時、連署は武蔵守・北条時村である)。
【史料D】元亨4(1324)年4月29日付「渋川貞頼譲状写」(『賀上家文書』)
譲 三郎義季 分
上野國澁川湯之鄕、下野國足利庄内板倉鄕、武蔵國大麻生鄕、但馬國大田庄内下保下方事、
右所領□□御下文相具所譲与也、後日為証文状如件、
元享〔亨〕四年四月廿九日 前丹波守貞頼 御判
まず【史料D】は、貞頼が「三郎義季」宛に上野国渋川郷などの地を譲る旨の書状であるが、『尊卑分脈』と照らし合わせれば、渋川氏であることに疑いは無い。
【史料C】の冒頭赤字部分について、『御調郡誌』では「源直頼」とするが、崩し字が類似することから「源貞頼」の誤読であろう。ちなみに渋川直頼(ただよりカ)は貞頼の孫(義季の子)にあたり、縁戚関係にあった足利直義の偏諱を受けたと思われる。この史料は「亡母平氏永仁四年八月十八日譲状等先例」に従い、「源貞頼」に対し所領を安堵する旨の書状であり、その譲状が【史料B】にあたる。
すなわち【史料B】を書いた「あかはん」が「源貞頼」の「亡母平氏」にあたる女性であり、「平時広女」とある『尊卑分脈』での記載が裏付けられる*10が、この母親から武蔵国大麻生郷・常陸国大串村・但馬国大田庄内下保下方・赤花村などの領地を譲られた「三郎」が【史料C】での「源貞頼」であったことが分かる。
*【史料B】での「三郎」について、【史料D】に「三郎義季」とあるからか、『御調郡誌』は渋川義季に比定するが、前述した通りこの当時義季はまだ生まれておらず、僅か数年後の【史料C】で領主が「源貞頼」に変わり、【史料D】で貞頼から義季に再度譲り渡されていることになってしまうのは明らかに矛盾である。『尊卑分脈』を見ると貞頼は「彦三郎」、義季は「又三郎」を称したといい、特に後者は「(彦)三郎」の「三郎(3男)」を表す通称と考えられるので、父子間で輩行名を "襲名" したと見なせる。寛元4(1246)年の宮騒動に際し名越光時が「我は義時が孫なり。時頼は義時が彦なり」と言った(『保暦間記』)のに代表されるように、「彦」には「曾孫」の意味があり、「彦三郎」の注記は、貞頼が足利三郎泰氏の曾孫にして同じく「三郎」を称したためにそう書かれたものなのかもしれない。
そして【史料D】でこれらの領地が貞頼から義季へ譲渡されたことが分かる。同史料を見ると、上野国渋川郷は苗字にもしている本貫地であることは言うまでもないが、家祖・義顕が「板倉二郎」とも称しているように、下野国足利荘板倉郷も足利本宗家(父・泰氏)から譲られ当初から領有していた土地であった*11。
以上3点の史料に現れる領地は、いずれも観応3(1353)年6月29日付の直頼の譲状にもリストアップされており、渋川氏相伝の地であったことが分かる。
(参考記事)
ここで再度【史料B】を見ると、当時の貞頼はまだ無官で「三郎」とのみ呼称されていたことが分かるが、元服からさほど経っていなかったためであろう。その実名は「義○」型という代々の名乗りの例外で、「頼」が先祖と仰ぐ源頼信・源頼義に由来するものと考えられるので、わざわざ上(1文字目)に置く「貞」の字が、当時の執権であった北条貞時を烏帽子親とし、その偏諱を許されたものと考えられる。【史料B】までに元服を済ませている筈で、元服は通常10代前半で行うことが多かったから、貞頼の生年は1280年前後であったと思われる。これに基づくと【史料D】の段階では当時40代前半にして既に任官済みであった丹波守を辞していたことになるが、足利・安達・長井氏など家格の高かった御家人での国守任官年齢が概ね20~30代であったという前田氏の論考*12も踏まえれば妥当であろう。
母親が北条氏出身であったことも一つの契機になったと思われるが、父・義春が文永9(1272)年の二月騒動に連座して一時期流罪に処されたことがあった(『尊卑分脈』)ためか、得宗への協調姿勢を示すために貞頼の加冠を貞時に願い出たのかもしれない。
一方で、没年についても判明していないが、元亨4年の段階で譲状(前掲【史料D】)を出してからさほど経たない頃に亡くなったのではないかと思われる。【史料B】を書いた貞頼の母「あかはん」が【史料C】の段階で「亡母」となっていることを参考にすると、同様に【史料D】は、貞頼自身が病気にかかっていたのか、この先永くないと感じ、元服したばかりの嫡男・義季を相続人とするために書いたものと思われる。元弘3(1333)年5月には義季が若年ながら足利高氏(のちの尊氏)に従って六波羅探題を攻めている*13から、【史料D】より間もない頃に貞頼の死による家督の交代があったとみて良いだろう。
(参考ページ)
脚注
*1:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.259 または 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。本項での『尊卑分脈』はこれに拠ったものとする。
*2:渋川満頼とは (シブカワミツヨリとは) [単語記事] - ニコニコ大百科。
*4:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.184・187。
*5:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.102「兼氏 足利」より。尚、本項作成にあたっては 第5刷(1992年)を使用。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その68-北条時広 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。典拠は『関東評定衆伝』建治元年条。
*7:注4前田氏論文 別表1 註釈(13)。同注前掲田中氏著書 P.227。
*8:いずれも 御調郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション より引用。その他、小要博「賀上家文書について」(『埼玉地方史研究』第31号、1993年)や『新修蕨市史』(蕨市、1995年)にも収録されている。
*10:北条氏は平維時の末裔を称する平姓の一族である(『尊卑分脈』など)。
*11:小谷俊彦「鎌倉期足利氏の族的関係について」。注4前掲田中氏著書 P.138。
*12:注4前田氏論文 別表2 参照。同注前掲田中氏著書 P.224。