Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安東貞忠

安東 貞忠(あんどう さだただ、1290年頃?~没年不詳(1330年頃?))は、鎌倉時代後期の武将、得宗被官。

 

安東貞忠の実在については次の史料で確認ができる。

【史料1】(正中3(1326=嘉暦元)年?)正月17日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*1

御吉事等、猶々不可有尽期候、忠時(=金沢貞顕の嫡孫/貞将の子)去十一日参太守(=得宗/14代執権・北条高時候、長崎新左衛門尉(=長崎高資、兼日、内々申之際、参会候て、引導候て、太守御前にて三献、御引出物ニ御剣左巻、給之候、新左衛門尉役也、若御前(=高時の嫡男・万寿〈のちの北条邦時〉か)同所へ御出、御乳母いたきまいらせ候、其後御台所の御方へ大御乳母引導候、三こんあるへく候けるを、大乳母久御わたり、御いたわしく候とて、とくかへされて候、御引出物ハ砂金十両 はりはこニ入てかねのをしきにをく 、其後御所へ参候、自太守御使安東左衛門尉貞忠にて候き、兼日刑部権大輔入道(=摂津親鑒、法名:道準)ニ申之間、大夫将監親秀(=摂津親秀:親鑒の弟)参候て申次、御所へは貞冬(=貞顕の子/忠時の叔父)同道候て、御前へ参了、御剣被下也、女房兵衛督殿役也、其外近衛殿・宰相殿以下御前祗候云々、見めもよく、ふるまいもよく候とて、御所ニても太守にても、御称美之由承候之際、喜悦無申計候、又…(以下欠)

細川重男によると、貞忠は正中元(1324)年に続き、この時も執権・北条高時邸での申次役を務め、同年3月の幕府の評定においても参否役として参加していたという*2。以下その史料2点も掲げておこう。

【史料2】(正中元(1324)年?)正月17日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*3

雖然上洛事、固辞之間、不及□□□上洛治定以後、任御約束御計候者、可為面目之由、以長禅門(=長崎円喜:高資の父)申出候之処、別駕(=秋田城介・安達時顕)へ忩申さたすへきよし(申し沙汰すべき由)仰られ候。別駕に披露候之処、折節尋常闕所無之□□て少所はしかるへからす(然るべからず)、侍所ニ闕所になりぬへき所あるよし風聞、いそき(急ぎ)申さたすへし。所謂下野国大内庄・常陸国□□郡等、忩ゝさ□□□□□被仰候き。合評定衆といへとも(雖も)奥州□趣□御存知之間、闕所ニなされす(成されず)候。別駕皆御存知の事にて候。去年進発ちかく成候て、以安東左衛門被仰出候しハ、上洛以前に可有御計候つれとも、さりぬへき闕所なき間、有其儀は上洛以後、忩可□□計云ゝ。其此は長□□長禅門カハ所労之間、(以下欠)

 

【史料3】(正中3(1326)年3月?)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*4

愚老(=貞顕)執権(=15代執権就任)事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人(=貞顕)陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道(=前掲【史料1】に同じ)山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守(=赤橋守時駿河守尾張前司遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃カ〕貢事、信濃左近大夫…(以下欠)

 

以上3つでの通称の表記に着目すると、正中年間では既に左衛門尉に任官済みであったことが分かる。 他の御家人得宗被官の例を参考にすれば、はこの時20~30代であったと推測されるので、逆算すると高時の父・北条(9代執権在職:1284年~1301年、1311年逝去)*5得宗家当主であった期間にその偏諱が許されたことになるが、北条時―安東忠の間に直接烏帽子親子関係が結ばれていたと推測できよう。

 

細川氏が紹介の通り、貞時が執権職を辞して出家する5ヶ月前の、正安3(1301)年3月3日付「関東下知状」(『常陸鹿島神宮文書』)*6には「安東左衛門尉重綱」と、同じ通称名を持った人物が確認できる*7。この時貞忠が同じく「安東左衛門尉」と称していたとは考えにくく、もし左衛門尉に任官していれば区別のため「安東左衛門尉」(【史料1】・【史料3】での「長崎新左衛門尉」「長崎新兵衛尉」がその一例)と呼ばれていただろうし、そうでなければ元服の際に称した「太郎」等の輩行名を名乗っていた筈である。いずれにせよ貞忠は若年であったと考えられ、特に後者であれば貞時の加冠により元服したばかりであったことになる。

 

同じ得宗被官の例では長崎、諏訪、尾藤氏などがそうであるように、「○○左衛門尉(○○は太郎、三郎などの輩行名)」ではなく単に「左衛門尉」を称するのは嫡流に限られていたから、重綱・貞忠はいずれも安東氏嫡流の人物であった可能性が高い。年代的には親子であったとも考えられるが、史料が無く系図等で裏付けることは出来ない。重綱―貞忠間で通字らしき共通の1字が共有されていないこともその要因であるが、北条義時の側近として活動した人物として安東忠家が確認されており、同じく「」の字を持つ貞家の子孫と考えられるのではないか。安東氏が「忠」を通字継承していったか、重綱の子であれば先祖の1字を取って命名されたことになる。 

 

尚、『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」には、元弘3(1333)年5月12日の久米川の戦いで敗れた桜田貞国長崎高重らの軍勢に、幕府は北条高時(崇鑑)の弟・泰家(四郎左近大夫入道恵性)を大将とする10万の軍勢(増援)を派遣したとあり、その中に「安東左衛門尉(安東高貞)」が含まれている*8が、その通称名や「貞」字の共通からすると貞忠の後継者(恐らくは嫡男)ではないかと思われる。その名も時と貞忠から各々1字を受けたものと推測される。この高貞が「安東左衛門尉」の通称を継承していることからすると、貞忠は【史料3】からさほど経っていない1327~1330年頃に亡くなったのではないかと思われる

 

脚注

*1:金沢文庫古文書』369号。『鎌倉遺文』第38巻29313号。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.114。

*3:金沢文庫古文書』355号。『鎌倉遺文』第38巻29313号。注2前掲細川氏著書 P.323。

*4:金沢文庫古文書』374号。『鎌倉遺文』第38巻29390号。注2前掲細川氏著書 P.319。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:『鎌倉遺文』第27巻20723号。

*7:注2同箇所。

*8:「太平記」新田義貞謀反の事付天狗催越後勢事(その11) : Santa Lab's Blog 参照。