安藤高季
安藤 高季(あんどう たかすえ、1315年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての陸奥国の武将、御内人。幼名は犬法師。通称は安藤五郎太郎。父は安藤宗季。
北条高時の烏帽子子
【史料1】正中2(1325)年9月11日付「安藤宗季譲状」(『新渡戸文書』)*1
ゆつりわたす つかるはなハのこほりけんかしましりひきのかうかたのへんのかうならひにゑそのさたぬかのふうそりのかうなかはまのミまきみなといけのちとう御たいくわんしきの事
みきのところハ宗季せんれいにまかせてさたをいたすへきよし御くたしふミを給ハるものなり しかるをしそくいぬほうし一したるによて御くたしふミをあいそゑてゑいたいこれをゆつりあたうるところなり宗季いかなる事もあらんときハこのゆつりしやうにまかせてちきやうすへきなり たたしうそりのかうのうちたやたなふあんとのうらをハによしとらこせんいちこゆつりしやうをあたうるところなりよてゆつりしやうくたんのことし
正中二年九月十一日 宗季(花押)
譲り渡す 津軽鼻和の郷、絹家島、尻引きの郷、片野辺の郷、並びに 蝦夷の沙汰、糠部宇曽利の郷、中浜の御牧、湊以下の地頭・御代官職の事
右の所は宗季先例に任せて沙汰を致すべき由 御下し文を給わるもの也 然るを子息犬法師一子たるによって御下し文相添えて永代此を譲り与うる所也 宗季いかなる事もあらん時はこの譲り状に任せて知行すべき也 但し宇曽利の郷のうち、田屋・田名部・安渡浦をば女子虎御前一期譲り状を与うる所也 依って譲り状、件(くだん)の如し
正中二年九月十一日 宗季(花押)
【史料2】元徳2(1330)年6月14日付「安藤宗季譲状」(『新渡戸文書』)*2
ゆつりわたす五郎太郎たかすゑニみちのくにつかるにしのはま せきあつまゑをのそく 事
右くたんのところハむねすゑはいりやうのあいたかの御くたしふミをあいそへてしそくたかすゑニゆつりあたふるところ也たのさまたけなくちきやうすへし又いぬ二郎丸か事ふちをくわへていとをしくあたるへしゆめゆめこのしやうをそむく事あるへからすよてゆつりしやうくたんのことし
元徳二年六月十四日 むねすゑ(花押)
譲り渡す 五郎太郎高季に陸奥国津軽西の浜〈関・阿曽米を除く〉事
右件のところは宗季拝領の間、御下し文を相添えて子息高季に譲り与うる所也 他の妨げなく知行すべし 又犬二郎丸がこと扶持を加えていとをしく当たるべし 夢々此の状を叛くことあるべからず 依って譲り状 件の如し
元徳二年六月十四日 宗季(花押)
*関=折曽関・深浦町関 *阿曽米=現・小泊巷辺り
上記2点は安藤宗季*3による譲状である。【史料2】は宗季が五郎太郎たかすゑ(漢字での表記が「高季」であることは後述史料を参照)に「津軽西浜」を譲るとしたものであるが、「五郎太郎」という通称名は、父・宗季が「安藤五郎」で、「太郎(長男)」を表すものである。先立って【史料1】で宗季は犬法師に、第一子であるから所領を譲るとしており、犬法師=たかすゑ(高季)とみなして良いだろう。
従って高季はこの2史料の間に元服したことになるが、その実名に着目すると父から継承した「季」の字に対して「高」は当時の得宗・北条高時の偏諱を許されたものと見受けられる*4。高時と高季は烏帽子親子関係にあったと判断され、【史料1】から高時が出家した正中3(1326=嘉暦元)年3月*5までの約半年の間に元服を遂げたのではないかと思われる。
ちなみにこの「五郎太郎たかすゑ」が安藤高季であることは次の史料2点によって裏付けられる。
【史料3】建武元(1334)年3月12日付「北畠顕家国宣」(所収:『祐清私記』乾 御判物御印物写抜書)*6
御判(=北畠顕家花押)
下 津軽平賀郡
可令早安藤五郎太郎高季領知当郡上柏木郷事、
右為勲功賞所被宛行也、任先例、可致其沙汰状、所仰如件、
建武元年三月十二日
早く安藤五郎太郎高季に領知せらるべき当郡上柏木郷事
右は勲功の賞のため宛行われる也(なり)、先例に任せ其の沙汰致すべくの状
仰せの所 件の如し
建武元年三月十二日
【史料4】建武2(1335)年10月29日付「北畠顕家国宣」(『新渡戸文書』)*7
花押(=北畠顕家)
陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊以下、同西浜 除安藤次郎太郎後家賢戒知行分関阿曾米等村 地頭代職事
右、安藤五郎太郎高季、守先例可令領掌之状、所仰如件
建武二年閏十月廿九日
陸奥国津軽鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、糠部郡宇曾利郷 中浜御牧、湊郷以下、同西浜〈除く安藤次郎太郎後家賢戒知行分 関・阿曾米等村〉地頭代職の事
右、安藤五郎太郎高季、先例を守り領掌せらるべくの状仰せの所件の如し
安藤師季
和歌山県熊野那智大社所蔵『米良文書』(『熊野那智大社文書』とも)には以下2点の史料が残る。
この2つの史料から、紀伊国熊野郡那智神社の檀那である安藤氏の嫡流は「安藤又太郎」を称し「下国殿」と呼ばれていたことが窺える。【史料6】は嘉吉元(1441)年に那智神社の先達(尻引三世寺別当)が慣例により安藤氏嫡流の系図メモを作成し、御師の実法院に提出したものであるといい、当時の「下国殿」が安藤泰季(康季)であったことが書かれている。一方【史料5】では貞和5年当時の「下国殿(安藤殿)」が安藤師季(もろすえ)で、その父親が宗季であったと書かれているが、【史料6】との整合性に問題はないと思う。
通称名の点でやや疑問が残るが、【史料5】・【史料6】での「安藤又太郎宗季」は、年代からいっても【史料1】・【史料2】での宗季と同人とみなして良いだろう。【史料1】・【史料2】当時「安藤又太郎」を称していたのは安藤五郎(宗季)と相論となっていた安藤季長であり、季長が没落後に宗季が惣領の通り名である「安藤又太郎」を称したのであろう。
【史料5】・【史料6】では宗季の家督継承者が「師季」であるというが、宗季の後継者となったのが「五郎太郎高季」であることは【史料4】までの各史料で明らかである。よって、高季が後に師季と改名したとする説が生まれている。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
師季の名は足利尊氏の執事・高師直の偏諱を受けたものと推測されており、高季が改名により足利方であることを明確にする目的があったとも考えられている*10。尊氏(初名:高氏)もその一例だが、北条高時滅亡後に「高」の字を棄て改名した者は少なからずいた(詳しくは次の記事を参照されたい)。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
一方、鈴木満氏は高季と師季を別人とされ、後に南朝方についた高季を弟である師季が打倒し、この師季の系統が下国氏(「下国殿」)として存続したと説かれている*11。確かに、年代や宗季の家督継承者であることが共通なだけで、系図等で同人とする根拠は確認できない。この点は今後も改めて検証を要するだろう。
*故に本稿の項目名は本家Wikipediaと異なって「安藤高季」とした。冒頭で示した通り高季の実在は明らかであり、高時の一字拝領者の一人として立項した次第である。
(参考ページ)
● 安藤高季
● 安東氏関連人物伝 鎌倉時代〜南北朝時代 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史
● 佐藤和夫「安東水軍史論序」(所収:『弘前大学國史研究』第84号、1988年)
脚注
*1:『鎌倉遺文』第37巻29194号。安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史。安藤氏 資料。
*2:『鎌倉遺文』第40巻31067号。安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史。安藤氏 資料。
*3:宗季については、安藤季久が安藤氏惣領の通り名「又太郎」を称すると同時に、北条一族で津軽に関わる「沙弥宗謐」の一字「宗」を拝領したもの、とされている(→ 『新編弘前市史通史編1』第4章「安藤の乱の展開」 P.311、安藤氏の乱 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史 註13)。この「沙弥宗謐」なる人物は、嘉暦2(1327)年の合戦(季長の郎党・季兼対幕府軍)に際しての書状(『仙台結城文書』所収)で、宇都宮備前守(=高綱?)に益子左衛門尉・芳賀弾正左衛門以下数人が討ち死にしたことを伝えて謝意を表す一方、安藤方を「津軽山賊(誅伐事)」と書いている(→『新編弘前市史資料編1 古代・中世編』六二五号文書)。
*4:安東氏関連人物伝 #安藤高季、南部と安東、宿命の対決の始まり その2 | 南部の国から。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*7:安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史。安藤氏 資料。
*8:『大日本史料』6-13 P.222。鈴木満「伝承と史実のあいだに ー津軽安藤氏・津軽下国氏・桧山下国氏・湊氏の場合-」(所収:『秋田県公文書館研究紀要』第23号)P.27[史料C]。
*9:安東氏関連人物伝 史料解説・参考文献 下国安東氏ノート〜安東氏500年の歴史。前注鈴木氏論文 同頁[史料B]。
*10:注4同箇所。
*11:注8前掲鈴木氏論文 P.29。