Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

葦名高盛

葦名 高盛(あしな たかもり、1318年~1335年)は、鎌倉時代末期の武将。

葦名盛貞(盛員とも)の最初の嫡男。蘆名高盛、芦名高盛とも書く。 

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【史料A】『会津四家合全』黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事*1 より一部抜粋

葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四年丙申八月十二日生 文保二年戊午二十三家督建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳 正傳庵月浦道円と号 但祠堂会津興徳寺の裏に在り
葦名式部太輔高盛(盛員男)
文保二年戊午八月十五日生 建武二年乙亥八月十七日父同片瀬川にて討死す時十八歳

 

【史料B】『異本 塔寺八幡宮長帳』*2

建武二年、會津葦名遠江守盛員四十才、其子式部大輔高盛十八才、八月十七〔ママ、十九〕日相州片瀬川ニテ討死、依之弟若狭守直盛十才家督ス、

 

【史料C】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文国立国会図書館所蔵「延暦寺申状」)*3


足利宰相関東下向宿次
  建武二八二進発

(中略)

 

十九日、辻堂・片瀬原合戦
  御方打死人敷
 三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
 土岐隠岐五郎    土岐伯耆入道孫兵庫頭、同舎弟、
 昧原三郎
  手負人
 佐々木備中前司父子 大高伊予権守
 味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
  降人於清見関参之、
 千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
 海上筑後前司   天野参川権守
 伊東六郎左衛門尉 丸六郎
 奥五郎
 諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠) 

地名(片瀬川→片瀬原)や日付(17日→19日)に若干の違いはあるものの、1335年の中先代の乱葦名道円六郎左衛門尉父子が打死(=討ち死に)したことは事実として確認ができよう。『系図纂要』にも同様の注記があり、六郎左衛門尉高盛はこの時18歳(数え年)で亡くなったというが、逆算すると【史料A】の通り文保2(1318)年生まれとなる。

 

鎌倉幕府滅亡の1333年まで北条高時得宗(14代執権、出家後も「副将軍」)の地位にあり、盛の名乗りは時の偏諱を許されたものと見受けられる。高時が執権職を辞して出家した正中3(1326=嘉暦元)年当時は9歳と若いが、近い年代だと六角時信のように、この年齢で元服した者も少なからずいた。10代前半での元服で出家して間もない高時から一字を拝領してもおかしくはないと思う。よって、高時と高盛は烏帽子親子関係にあったと判断される

 

脚注