Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

普音寺高基

北条 高基(ほうじょう たかもと、1316年頃?~1333年)は鎌倉時代末期の武将。普音寺流北条氏の一門。第13代執権・北条基時(普音寺基時)の子で、普音寺高基普恩寺高基(ふおんじ ー)とも呼ばれる。

 

まずは次の史料をご覧いただきたい。

【史料1】 (年次未詳)「金沢貞顕書状」(『金沢称名寺文書』)より*1

(前略)

御乗之路次無為一昨日 十七日酉刻 下着候了。左候□、同前候。返ゝ目出喜入候。神宮寺殿御乳母両人進物、去夕被遣候之処、領納。悦喜候之間、悦思給候。左候者、五月其憚候之間、来月可見候。此程も無心本候。

右馬助貞冬罷当職一級事令申候之処、一昨日有御沙汰、御免候。御教書進之候。小除目之次、可有申御沙汰候。同時ニ駿川駿河大夫将監顕義(=貞顕の兄・金沢顕実の子)越後大夫将監時益*2。))・相模前右馬助高基・相模右近大夫将監時種等御免候了。此人ゝゝ自貞冬上首候之間、不可超越候程ニ不知存候。仍竹万庄沙汰人帰洛之由、令申候之際、事付候。此人ゝゝ同時ニ被叙候之様 (中欠) 人と同日ニ可被叙候。評定衆昇進之時、引付衆・非公人之上首候哉覧と沙汰ある事ハ古今無沙汰事候。旧冬四人評定衆・鎮西管領(=赤橋英時*3御免候しも、引付衆・非公人の上首、御さたなく候き。今度始御沙汰候歟。高基時種等を被付上候。背本意候。官途執筆高親眼□事候之際、父道準(=高親の父・摂津親鑒)令申沙汰候。城入道(=安達時顕)・長崎入道(=長崎円喜はかり相計候云ゝ。内挙も罷官申候も、所望の方人にて候事なと、つやゝゝ無存知人候之間、歎入候。

(以下略)

 

(切封墨引)  五月十九日

この【史料1】は年次未詳であるが、文中に「城入道」とあることから、秋田城介・安達時顕法名:延明)が出家した嘉暦元(1326)年以後に書かれたものであることは確実である。細川重男によれば、この書状は金沢貞顕の次男・貞冬の官位昇進についてのものであるという。貞冬は右馬助を辞して一級昇進することが認められたが、貞冬の「上首」であった顕義時益高基時種を超越する形で貞冬だけを昇進させるわけにいかないということで、「上首」4名も同時に昇進することとなったようである。この4名は北条氏一門に間違いなかろう。このような処置に対し貞顕は、前年の冬に評定衆および鎮西探題が昇進した際には「引付衆・非公人」で「上首」であった者には何の沙汰も無かったという前例まで挙げて不平不満を述べていることがこの書状で窺える。

相模前右馬助」という通称名は、父が相模守で、北条高基自身が「前・右馬助」であることを表すものである。相模守は、北条時頼以降のほぼ全ての執権(6代長時と11代宗宣を除く)世襲した役職であり*4、「」の字の共通からしても、高の父はこの当時も存命であった13代執権の時に間違いなかろう。『正宗寺本 北条系図』には基時の子、仲時の弟として「高基 右馬亮〔ママ〕元弘自害」の記載が見られるが、自害については下記【史料2】により裏付けられる。『太平記』は元々軍記物語であり、「右馬助」は単に「右馬助」とすべきところの誤りであろう。 

【史料2】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より 

…………其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実〔ママ、朝貞カ〕常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部〔ママ、刑部〕大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時〔正しくは、城加賀前司師景、城越前(権)守師顕 か〕・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量〔ママ〕同式部大夫顕高同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞……我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。……元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 

北条仲時は徳治元(1306)年生まれ*5で、父・基時が21歳(数え年、以下同様)*6の時の子であった。よって、高基の生年が徳治元年より大幅に遡ることはないだろう

父・基時は14歳で左馬助正六位下相当*7となって叙爵(=従五位下、19歳で越後守従五位下相当、国守)となっている。兄・仲時も25歳で六波羅探題北方となった時、既に越後守に任官済みであった*8から、基時と同様の昇進コースを歩んだのではないかと思われる。

これに対し、高基は右馬助正六位下相当*9止まりであったから、一門と共に自害した【史料2】当時はまだ国守任官の19歳に達していなかったのではないか。叙爵従五位下は【史料1】のタイミングで成されたのかもしれない。仮に享年18として逆算すると1316年頃の生まれと推定できる。

 

これに基づくと、得宗北条高時が14代執権を辞して出家した正中3(1326=嘉暦元)年には11歳と元服の適齢となる。基の「」は時が烏帽子親となって偏諱を与えられたものであろう。高基は父・基時法名:信忍)と共に鎌倉に居住し、【史料2】の通り高時と運命を共にしたのであった。

 

(参考ページ)

 普恩寺流北条氏 ー  北条高基

 

脚注