Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

五大院高繁

五大院 高繁(ごだいいん たかしげ、1304年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期の武士、御内人得宗被官)。実際の史料で確認できる通称は五大院右衛門太郎。妹は北条高時の側室・常葉前(ときわのまえ)

 

 

生年と烏帽子親の推定

元亨3(1323)年10月の故・北条貞時(9代執権、1311年逝去)13年忌供養について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』、以下『供養記』と略す)によると、同月21日の円覚寺法堂上棟の際に「禄役人」を務めるメンバーの一人に「五大院右衛門大郎〔ママ〕高繁」の名が含まれており*1、27日朝にも「五大院右衛門太郎」が「近衛少将(=徳大寺実茂か*2に「馬一疋葦毛、銀剱一」を「名越土佐前司殿」が進上した際の「御使」を務めていることが確認できる*3

 

ここで次の史料も見ておきたい。 

【史料1】『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」より*4 

……中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿(=北条高時の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。……

太平記』は本来軍記物語であるが、【史料1】はそのうち鎌倉幕府滅亡直後の部分を描いた箇所である。ここでは五大院宗繁(むねしげ)という人物が登場するが、通称名や「○繁」という名乗りの類似、年代の近さからであろうか、先行研究では専ら、宗繁=高繁とされる。

正中2(1325)年のものとされる11月22日付「金沢貞顕書状」*5には「太守御愛物 常葉前」が男子を出産したとの記載があり、北条邦時に比定される*6。そして【史料1】との照合により、この「常葉前」が宗繁(高繁)の妹であったと考えられる。従って現実的な親子の年齢差を考えれば、常葉前は遅くとも1305年頃までには生まれている筈である。夫の高時が嘉元元年12月2日(西暦:1304年1月9日)生まれである*7ことを考えると、ほぼ同世代とみて良いのではないか。その兄である宗繁(高繁)も1300年代初頭の生まれであろう。

 

『供養記』での高繁の通称「五大院右衛門太郎」は、「五大院右衛門(尉)」の「太郎(長男)」を表すものであり、元亨3年当時高繁はまだ無官であったことが窺える。父親と同じく右衛門尉に任官する可能性はあるだろうから、元服してさほど経っていない若年であったためと考えられよう。元服は通常10~15歳程度で行われることが多く、他の例を見ると右衛門尉には20~30代で任官する傾向にあったから、高繁の元服は1310年代~1320年代初頭にかけての期間に推定される。よって、世代的には高繁=宗繁としてもおかしくないと思う。

 

ではどちらの名乗りが正しいかと言えば、やはり史料の性格上「」を採用すべきであろう。詳しくは後述するが「繁」は五大院氏の通字の一つと考えられるので、一方の「」の字は、1311年に得宗家督を継ぎ、1316年から14代執権を務めた*8が烏帽子親となり、その偏諱を与えられたものに間違いないと思う。妹が嫁いでいる関係で高時は義弟にあたるが、高時は延慶2(1309)年に7歳で既に元服を済ませていた*9。高時正室の安達氏(兄弟)の例と同様に、婚姻関係と烏帽子親子関係に連動性があるものと推察される。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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ところで【史料1】での五大院宗繁は、『供養記』での高繁と通称が異なるが、高繁の父「五大院右衛門(尉)」その人かもしれないし、或いは後に父と同じく右衛門尉に任官した可能性も考えられるので、親子か同人かは断定しづらい。

前述したように、世代的には邦時母の兄=高繁とするのが妥当だと思うが、『系図纂要』を見ると、邦時の母は「五大院右衛門尉宗繁女(=娘)」と記載されている。勿論、江戸時代幕末期の成立である『系図纂要』が単に『太平記』からの引用を誤った可能性も考えられるが、実際これが正しいのではないか。

すなわち【史料1】は本来「高繁」と記すべきところを、父親の名前で書いたとも考えられよう。単なる誤記かもしれないし、軍記物語ゆえ意図的な脚色でわざと変えた可能性もあるが、五大院繁は同じく「五大院右衛門尉」を称した、高繁の父の名前と推測される。恐らく「宗」の字は8代執権・北条時偏諱なのではないか。

 

高繁の最期

前掲【史料1】を読み進めると、宗繁(高繁)の最期について書かれている。鎌倉幕府の滅亡時に高時からその嫡男である邦時を託された宗繁だったが、北条の残党狩りが進められる中で、やがて褒賞目当てに邦時を敵方に差し出そうと考え、伊豆山に逃がした後に新田義貞の執事・船田義昌にその場所を密告した。邦時は伊豆へ向かう途上の相模川で捕らえられ、元弘3/正慶2(1333)年5月29日に処刑されたが、裏切りの事実が新田方に伝わると宗繁は逐電。その途上で手を差し伸べる者はおらず、「遂に乞食の如くに成り果て、道路の街にして、飢死」したという。死因が餓死であるから、1333年内には亡くなったと考えて良いだろう。

 

五大院氏について

ところで、五大院氏については「御内人(=得宗被官)」であったことが分かっているだけで、家系などその詳細は明らかになっていない。五大院氏が「御内人」であったことは次の史料により裏付けられる。 

【史料2】『武家年代記』裏書・嘉元3(1305)年条 より*10

嘉元二年

同三年

……同(四)廿三子刻。時村朝臣誤被誅了。同五二。時村討手族十一人被刎首了。七田〔ママ、和田〕七郎茂明。工藤中務丞有清。豊後五郎左衛門尉光家。海老名左衛門次郎秀経〔*秀綱〕。白井小二郎〔*小次郎〕胤資。五大院九郎高頼以上御内人岩田四郎左衛門尉宗家。赤土左衛門四郎(=長忠)。井原四郎成明〔*盛明〕。肥留新左〔*比留新左衛門尉〕宗広。甘糟左衛門太郎忠貞。土岐孫太郎入道行円〔*鏡円〕已上十一〔十二の誤記か〕人。此内茂明逐電了。……

は『鎌倉年代記』裏書・同年条における表記。 

この史料は、嘉元3(1305)年の北条時村殺害事件に関与したとして五大院高頼(たかより)を含む12名が斬首となったことを伝えるものである。『鎌倉年代記』裏書にも同様かつ更に詳細な記述が見られる*11が、高頼については「九郎」のみの名乗りで無官であったことが窺える。こちらも元服してさほど経っていなかったためと思われるが、高時の元服前に「高頼」と名乗っている以上、こちらは高時の偏諱ではないだろう。のちの高繁が「太郎」と名乗ったのに対し、九郎高頼は庶子であったと思われる。

 

同じく嘉元の乱に関する別の史料として菊池紳一が紹介された『嘉元三年雑記』に掲載の「関東御教書案」にも他の五大院氏一門の者が確認できる。

【史料3】『嘉元三年雑記』より*12

(朱書)『五月』

十八日、

駿川守〔ママ〕被誅之由、関東御教書案文、自或辺到来之状云、

駿河守宗方依有陰謀之企、今日午刻被誅了、可存其旨、且就此事、在京人并西国地頭・御家人等不可発向由、可被相触子細、以武石三郎左衛門入道道可・五代院平六左衛門尉繁員所被仰也、働執達如件、

嘉元三年五月四日  相模守(=執権・北条師時在判

遠江守殿(=北条時範:六波羅探題北方)

越後守殿(=北条貞顕六波羅探題南方)

苗字の表記が「五院」と若干異なりはするが、「(しげかず)」という名からして高と同族の可能性が高いだろう。このことからも「繁」は五大院氏における通字の一つであったと推測される。武石氏*13と共に得宗被官としての活動が確認できる。 

 

その2年後、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎」北条時宗忌日)においても五大院氏一門から2名が結番に割り当てられている。

【史料4】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*14

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 八 番
  諏方左衛門尉    塩飽右近入道
  主税頭       諏方三郎左衛門尉
  安保五郎兵衛入道  五大院太郎右衛門尉
  本間五郎左衛門尉  岡田十郎

(中略)

  十二番

  工藤右衛門入道   五大院左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

8番衆の一人「五大院太郎右衛門尉」について、『鎌倉遺文』では高繁に比定するが、「太郎右衛門尉」は輩行名が太郎で右衛門尉に任官したことを表すもので、高繁の「右衛門太郎」とは異なるので、この人物が高繁の父(宗繁?)であろう。

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12番衆の「五大院左衛門入道」については、『続群書類従』所収「遠藤系図」によると、遠藤為俊の娘の一人に「相模修理亮平宗頼朝臣室。女一人出生云々。後嫁五大院左衛門尉同太郎左衛門尉母也。」と注記されており*15北条時頼(相模守)庶子宗頼(修理亮)が弘安2(1279)年6月に亡くなった*16後に五大院左衛門尉と再婚したことが分かるが、前述の「五大院左衛門入道」はこの左衛門尉が出家した同人ではないかと推測される。

同年8月日付「紀伊阿弖河荘地頭陳状案」(『高野山文書又続宝簡集』78 所収)*17にも「五大院六郎左衛門尉」の名があり、いずれも実名は分からないが、同じ「左衛門尉」の官途を持つ前述の五大院繁員の近親者なのかもしれない。

 

そして、再び『供養記』を見ると、元亨3年10月の貞時13年忌供養には高繁以外にも五大院氏一門の人物が2名参加していることが確認できる。

五大院七郎:10月27日朝、「上野四郎左衛門尉」が「馬一疋栗毛、銀剱一」を「一条侍従(=能氏)」に、「石河大寺孫太郎」が「馬一疋鹿毛」を「駿川駿河左近大夫*18」に、それぞれ進上した際の「御使」*19

● 五大院左衛門入道:10月27日の法要において「銭十貫文」を進上*20。前述の「五大院左衛門入道」或いはその息子「太郎左衛門尉」と同人か。

 

その後は、嘉暦4(1329)年正月24日付「前将軍久明親王百ヶ日仏事布施取人交名案」(『佐伯藤之助所蔵文書』)*21には「五大院兵衛太郎」なる者が確認できるが、建武元(1334)年の奥州式引付衆一番の一人「五大院兵衛太郎(『建武年間記』)*22と同人であろう。その後、興開〔興国〕元(1340)年11月26日付の「沙弥宗心」の書状にある「五大院兵衛入道*23 および 康永2(1343)年9月日付の結城親朝の書状にある「五大院兵衛入道玄照(げんしょう)*24は、兵衛太郎の父親が出家した姿であろう。五大院氏にはこのように鎌倉幕府滅亡に殉ずることなく生き残った者もいたことが窺えよう。

 

管見の限り、史料上で確認できる五大院一族は以上に挙げたものに留まる。

「五大院太郎右衛門尉(宗繁か)右衛門太郎高繁」や「五大院左衛門尉―太郎左衛門尉」等のように親子関係が分かるものもあるが、高頼(九郎)・繁員(平六)・七郎某など史料に現れる人物との関係は不明で、系図の復元は非常に困難である。

繁員の通称「平六」は、北条時定三浦義村大多和義勝*25などといった他の例を見る限り、本来は平姓で「六郎」を表す通称名の可能性がある。根拠が無く全くの推測になってしまうが、五大院氏も同じく桓武平氏に連なる家柄と考えても良いのではないか。「繁」を通字とする家柄としては、平繁盛平国香の子、平貞盛の弟)の系統が挙げられる*26。高頼の「高」は高時と同じく、祖先の平高望(国香(良望)の父)から取って命名されたとも考えられよう。このあたりは後考を俟ちたいところである。

 

 

(参考ページ)

 五大院宗繁 - Wikipedia

 五大院宗繁(ごだいいん むねしげ)とは - コトバンク

御内人人物事典 ー 五大院宗繁

 五大院右衛門宗繁相模太郎を賺す事 | ぐりのブログ

 

脚注

*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.692。

*2:前注『神奈川県史』P.696、P.701に「近衛少将実茂朝臣」とあり、徳大寺公直の子・実茂に該当か。

*3:前注『神奈川県史』P.705。尚、この箇所で「名越土佐前司殿」を重村(北条重村)とするが、政村流北条政長の子であり、名越流に養子入りしたとの情報も確認できないので誤りと思われる。『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」には、鎌倉幕府滅亡時の自害者の一人に「名越土佐前司時元」とあり、むしろこちらの可能性が高いだろう。名越流で該当し得るのは、年代的にやや疑問は残るが、北条時幸の子・時元である。

*4:『大日本史料』6-1 P.55~ も参照のこと。

*5:金沢文庫古文書』武将編368号、『鎌倉遺文』第38巻29255号。

*6:鎌倉年代記』裏書と同内容を記す『北条九代記』によると、元弘元(1331)年12月15日に7歳であった高時の第一子が幕府御所に於いて元服し「邦時」を名乗ったという(→『編年史料』元弘元年10~12月 P.110)。既に指摘されている通り、将軍・守邦親王が加冠役となって「邦」の偏諱を受けたものであろう。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)、北条高時 - Wikipedia より。

*8:前注同箇所。

*9:前注同箇所。

*10:国史大系. 第5巻 吾妻鏡 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*11:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。

*12:菊池紳一「嘉元の乱に関する新史料について―嘉元三年雑記の紹介―」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』第3章、八木書店、2008年)P.787、P.795。

*13:千葉常胤の3男・三郎胤盛を祖とする家柄(→ 詳細は 千葉氏の一族 ー 武石氏 を参照)。武石入道道可の実名は不明だが、胤盛の仮名を継いでいることから、武石氏嫡流の者かもしれない。

*14:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*15:生駒孝臣「鎌倉中・後期の摂津渡辺党遠藤氏について ―「遠藤系図」をめぐって」(所収:『人文論究』第52巻2号、関西学院大学、2002年)P.23。

*16:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月 P.5

*17:『鎌倉遺文』第30巻23037号。

*18:注1前掲『神奈川県史』P.696・698・701に「駿川左近大夫範貞」とあるので実名が「範貞」であることは確実で、P.696・706では常葉範貞に比定する。しかし、P.710の「六波羅 遠江左近大夫将監殿」をも常葉範貞としており、当時六波羅探題北方であった(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪)こと、父・時範の最終官途が遠江守である(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その33-常葉時範 | 日本中世史を楽しむ♪)ことからしても後者が正しいと判断される。ちなみに常葉範貞が駿河守となったのは6年後のことであり、「駿川左近大夫範貞」は常葉範貞と別人とすべきであるが、書状等の史料や『尊卑分脈』等の系図類で該当し得る人物は確認できず、姓氏不詳である。

*19:注1前掲『神奈川県史』P.706。

*20:注1前掲『神奈川県史』P.708。

*21:『鎌倉遺文』第39巻30497号。

*22:『大日本史料』6-1 P.414。『鎌倉遺文』第42巻32865号。

*23:『大日本史料』6-5 P.121。尚、この史料の年号は後から書き入れられたものであるらしく、実際は延元3(1338)年のものではないかとされる。

*24:『大日本史料』6-7 P.707

*25:「太平記」巻10 三浦大多和合戦意見の事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*26:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。