足利頼氏
足利 頼氏(あしかが よりうじ、1240年~1262年)は、鎌倉時代中期の武将、鎌倉幕府御家人。足利宗家第5代当主。父は足利泰氏、母は北条時氏の娘(北条時頼の妹)。初名は足利利氏(ー としうじ)。
『吾妻鏡』における初見は建長4(1252)年11月11日条の「足利大郎〔太郎〕家氏 同三郎利氏」である。紺戸淳氏によると、家氏がこれまで『吾妻鏡』に寛元3(1245)年8月15日条~建長3(1251)年8月15日条までの7年間、5箇所で「足利三郎家氏」と記されてきた*1のに対して「三郎」を名乗る人物が利氏(頼氏)に変わっている。足利義兼以来、足利氏嫡流の当主は必ずしも兄弟の順序に関係なく代々「三郎」を称しており、母の出自の違い(家氏の母は名越朝時の娘)に伴って、建長3~4年の間に泰氏の嫡子の座が家氏から利氏(頼氏)へ変化したことを表すものであると考えられている*2。
利氏が「三郎」の輩行名(通称)を名乗ったのは当然元服の時と思われるが、『吾妻鏡』建長4年4月1日条では家氏の通称が「足利大郎家氏」と変化しているので、この時までに利氏が元服を済ませたと考えて良いだろう。更に、遡って建長3年12月2日には父の泰氏が出家しており(→『吾妻鏡』同日条)、これを受けて利氏が家督を継承したと考えられるので、建長3年末までに元服も済ませていたのではないか。利氏の元服は建長3年8月15日~12月2日の間に行われたと推定される。
先行研究により仁治元(1240)年生まれとするのが有力であるが、その場合建長3年当時12歳(数え年、以下同様)となって、元服の年齢として妥当である。
この利氏がのちの頼氏であることは次の史料によって裏付けられる。
【史料】『吾妻鏡』建長8(1256=康元元)年8月11日条 より
建長八年八月小十一日己巳。雨降。相州御息被加首服。号相摸三郎時利 後改時輔。加冠足利三郎利氏 後改頼氏。
当時の執権「相州」=相模守・北条時頼の息子である北条時輔の元服を伝える記事である。利氏が加冠役(烏帽子親)を務めており、この時は「利」の字が与えられて「(北条)時利(ときとし)」と名乗ったようである。利氏自身も当時17歳と若かったが、母方の伯父でもあった時頼からの指名を受けたものと推察される。
この記事にも "後に改名した" と書かれているように、この頃から利氏の名前の表記が「頼氏」に変化しており、先行研究で既に説かれている通り、時頼が執権を辞する数ヶ月前のこの頃に、その「頼」の偏諱を与えられたと考えて良いだろう。この理由について筆者は、近く出家を考えていた時頼が、自身の引退前に時利(時輔)との烏帽子親子関係を形式上解消させておき、得宗たる自身と直接烏帽子親子関係にある状態を創り出す意図があったのではないかと推測する(詳しくは次の記事を参照していただきたいと思う)。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
その他詳細は
を参照いただければと思う。