Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

足利泰氏

足利 泰氏(あしかが やすうじ、1216年~1270年)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府御家人足利義氏の嫡男で足利宗家第4代当主。

 

尊卑分脈*1などによると、文永7(1270)年5月10日に55歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい、『吾妻鏡』建長3(1251)年12月2日条にも泰氏が「年三十六」で出家したと書かれており、いずれも逆算すると建保4(1216)年生まれとなる。

 

紺戸淳は、鎌倉時代における元服は通常10~15歳の間で行われたとして、前述の生年に基づく氏の元服の年次を1225~1230年と推定し、当時の執権であった北条(在職:1224年~1242年)*2を烏帽子親としてその偏諱」を受けたと説かれている*3。『吾妻鏡』では嘉禎2(1236)年12月11日条に「新丹後守泰氏」とあるのが初出とされ*4、依然として泰時が執権であったこの時までに元服を済ませていることは確実であるから、紺戸氏の説は正しいと言えよう。

尊卑分脈』等によれば、泰氏の母が北条泰時の娘であったので、時の執権にして外祖父でもある泰時が、孫・泰氏の加冠役(烏帽子親)を務めたのであろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

その他詳細は

 足利泰氏 - Wikipedia

 足利泰氏(あしかが やすうじ)とは - コトバンク

を参照いただければと思う。

 

脚注

*1:『編年史料』亀山天皇紀・文永7年4~6月 P.28 参照。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.11~12。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.320「泰氏 足利」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。