Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

足利貞氏

足利 貞氏(あしかが さだうじ、1273年~1331年)は、鎌倉時代後期~末期の武将、鎌倉幕府御家人足利家時の嫡男で、足利宗家第7代当主 。足利高義足利尊氏足利直義の父。通称は三郎。

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足利貞氏像(浄妙寺所蔵)

 

尊卑分脈*1・『常楽記』*2などによると、元弘元/元徳3(1331)年9月初頭に59歳で亡くなったと伝えられ、逆算すると文永10(1273)年の生まれとなる。

谷俊彦は、母方の祖父・北条時茂が同7(1270)年に30歳で亡くなっている*3ことから、貞氏がその孫とするにはやや難があり(時茂がそのまま生きていた場合、時茂と貞氏の年齢差は33)霜月騒動の余燼の収まった弘安9(1286)年以降に10歳前後で元服して執権・北条貞時偏諱を受けたのではないかとして、数年下った建治3(1277)年頃の生まれとされている*4。しかし、前田治の研究によると、正応5(1292)年2月の段階で惟宗氏(実名不詳)が讃岐守に在任していたものが、正安年間には貞氏が讃岐守に任官の後に出家して「讃岐入道」と呼ばれており、国守任官はその間であったと考えられる*5ので、1277年生まれとすると国守任官が早過ぎる感じが否めない。複数の史料が没年59または60とすることからも、1273年の生まれで問題ないだろう*6

 

貞氏の命名について、南朝側の所伝をまとめたという『(異本)伯耆巻』には次のように書かれている*7。 

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〔史料A〕『伯耆巻』(名和伯耆太郎兵衛長興家蔵本)の写(30ページ目)より一部抜粋

足利讃岐守相模守貞時が烏帽子子にて貞氏と号し 其(その)子高氏は赤橋武蔵守久時が聟(むこ)と成て治部大輔に任ぜられける 高氏も高時が称号の一字を受て高氏とぞ付ける

 

"足利讃岐守は北条の烏帽子子であったので氏」と名乗った" とはっきり書かれており、時が加冠役(烏帽子親)を務めて「」の偏諱を与えたことは確実であろう。息子の足利(のちの尊氏)についても同様にして次の得宗・北条時の1字を受けたとの記述も見られる。

紺戸淳は、鎌倉時代における元服は通常10~15歳の間で行われたとして、前述の生年に基づく氏の元服の年次を1282~1287年と推定し、弘安7(1284)年から執権の座にあった(在職:1284年~1301年)*8偏諱を受けたと説かれている*9。祖父・足利頼氏が12歳*10、子の高氏が15歳*11、ひいては曽孫にあたる足利義満が11歳*12元服した例を踏まえれば、この推定は妥当であろう。貞氏は9代執権に就任したばかりの貞時を烏帽子親として「貞」の1字を受けたのであった。

 

その他詳細は

 足利貞氏 - Wikipedia

 足利貞氏(あしかが さだうじ)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 足利貞氏

を参照いただければと思う。

 

(参考記事)

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:『常楽記』元徳3年9月6日条に「足利讃岐入道殿逝去」とある。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その32-常葉時茂 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*4:谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.126。

*5:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:前注田中氏著書)P.190。典拠は『門葉記』冥道供七「関東冥道供現行記」正安4(1302)年2月9日条「足利讃岐守」。但し田中氏同書 P.287・400に掲載の『瀧山寺縁起』により、正安3年12月13日の段階で「讃岐入道殿」と呼ばれていることが確認できる(→ 詳しい史料本文は 足利貞氏 - Wikipedia を参照)。単なる誤記か、或いは出家したことが伝わっていなかったかのいずれかであると思われるが、いずれにせよこの頃までに讃岐守に任官済みであったことは確かであろう。その他、工藤時光 - Henkipedia【史料15】(『鎌倉年代記』裏書)により、嘉元3(1305)年までに出家していたことが裏付けられる。

*6:他に判明している例を挙げると、大友貞親二階堂貞藤が同じく1273年生まれである可能性が濃厚で、北条(大仏)貞房河越貞重少弐貞経長井貞重のように1272年生まれにして「貞」字を受けている者も少なくない。彼らは貞時が執権に就任した弘安7(1284)年には12~13歳と元服の適齢を迎えるが、執権に就任したばかりの貞時が、霜月騒動に向けて安達泰盛平頼綱の対立がまだ激化していないこの頃に、彼らの加冠を務めることに何ら問題はないと思う。貞氏も同様に貞時の執権就任直後の一字拝領者であったと考えられる。

*7:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.11~12。

*10:足利頼氏 - Henkipedia 参照。

*11:注9前掲紺戸氏論文 P.11。典拠は『続群書類従』所収「足利系図」(→ 足利尊氏 - Henkipedia も参照のこと)。

*12:『尊卑分脈』の「義満公伝」文中に「応安元年四十五元服。十一才加冠細川右馬助頼之朝臣」とある。