Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

相馬高胤

相馬 高胤(そうま たかたね、1315年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、下総相馬氏当主。通称は小次郎。

 

相馬氏の系図上では確認できない人物だが、次の史料により実在が確かめられる。

史料A】元弘4(1334=建武)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*1

 関東廂番

定廂結番事 次第不同

( 中略 )

三番

 宮内大輔貞家      長井甲斐前司泰広

 那波左近大夫将監政家  讃岐権守長義

 山城左衛門大夫高貞   前隼人正致顕

 相馬小次郎高胤

( 中略 ) 

 

右守結番次第、無懈怠可令勤仕之状、依仰所定如件、

 元弘四年丶丶

上記三番衆のメンバーを見てみると、他のメンバーが何かしらの官職に任じられているのに対し、相馬高胤だけが無官のため「小次郎」と称されている。これは、一番衆の一人「河越次郎高重」と同様で、元服からさほど経っていなかったためであろう。恐らく10~20代の年齢であったと推測される。

逆算すると、元服の時期は北条高時執権期間(在職:1316年~1326年*2内であったと推定可能であり、通字の「胤」に対して上(1文字目)に戴いている「」の字は時の偏諱を拝領したものと考えて良いだろう*3

 

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▲【図B】相馬氏略系図*4

 

七宮涬三の研究によると、相馬氏は文永8(1271)年の相馬胤村(たねむら)急死後の所領争いによって、長男・胤氏(たねうじ)の系統下総相馬氏と嫡男・師胤(もろたね)の子である重胤(しげたね)の系統奥州相馬氏に分かれ、高胤を下総相馬氏の人物としている*5。同氏によれば、元亨元(1321)年に胤氏の子・五郎左衛門尉 師胤が罪を問われて行方郡太田村・吉名村を没収され(これらの地は御内人・長崎思元に渡る)*6、その弟・胤基の系統が下総相馬氏の嫡流として戦国末期まで存続したという。

世代的に考えると、高胤は師胤・胤基兄弟の子または甥とするのが妥当と思われるが、上掲【図B】に示した通り、歓喜寺所蔵の相馬系図では胤基の子は「胤忠(たねただ)」と書かれている*7。系譜に若干の違いがあるものの、千葉大系図や広瀬氏所蔵系図でも胤忠の記載はあり、それ以降の系譜は一致している。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事に紹介の通り、鎌倉幕府滅亡後「高」の字を棄てて改名した御家人は少なからずおり、同じく「小次郎」を称したというこの "胤忠" も高胤が改名後の同人である可能性が考えられるが、この点も含め以後の活動内容については後考を俟ちたいところである。

 

(参考ページ)

 相馬高胤 - Wikipedia

 下総相馬氏 #相馬高胤

下総相馬氏 #相馬胤忠

 

脚注

*1:『大日本史料』6-1 P.422。『鎌倉遺文』第42巻32865号。『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:下総相馬氏 #相馬高胤 より。

*4:武家家伝_下総相馬氏 および 光音子「陸奥と下総の相馬」(所収:「2011年3月11日午後2時46分東日本大震災による奥州相馬によせて」/新四国相馬霊場88ヶ所を巡る会、2011年)2ページ目系図 より作成。

*5:七宮涬三『下総奥州相馬一族』(新人物往来社、2003年)P.61~65、P.93。

*6:同年12月17日のものとされる「相馬重胤申状」(『相馬家文書』)による。『鎌倉遺文』第36巻27918号 所収。

*7:武家家伝_下総相馬氏 より。