大掾高幹
大掾 高幹(だいじょう たかもと、1310年頃?~1380年頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。桓武平氏より分かれた大掾氏の嫡流にあたる多気氏の当主で、多気高幹(たけ ー)とも呼ばれる。通称は十郎。
世代と烏帽子親の推定
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実名「高幹」に着目すると「幹」は大掾氏の通字であるから、「高」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、同時期に現れる同族同名の真壁高幹について得宗・北条高時から偏諱を受けたとする見解*1を参考にすれば、同様に高時から1字を賜ったものと判断される。
これを裏付けるために、『尊卑分脈』等の系図を参考にして、世代の推定を行ってみたいと思う。次の図に着目していただきたい。
ここで重要なのが先祖からの代数である。桓武天皇~平高望までの生年(一部諸説あり)を見れば分かるように親子間では相応の年齢差がある筈であり、例えばある人物の孫(3世の孫)同士であれば従兄弟関係となるが、さほど世代は変わらないことが多いだろう。上図でも例えば、平貞盛8世の孫にあたる北条時政と平重盛が、奇しくも共に保延4(1138)年生まれである*2。従って代数は世代の推定にあたって一つの目安になると言えよう。
このような観点から、同じ代数同士の人物を並べる形でまとめたものが上の図である。厳密には北条高時と多気高幹で1代のずれがあるが、途中の親子間の年齢差の関係でそうなることも十分あり得よう。
先祖を遡っても、多気義幹が現れるのは、時政や重盛の活動期とほぼ重なっているし、義幹の跡を継いだ資幹の息子・多気朝幹は(根拠が弱いが)北条泰時(初名:頼時)に同じく源頼朝の偏諱を受けた可能性が考えられる。高幹の祖父・時幹も北条氏の通字「時」の使用が許されており、得宗専制が強まる北条時宗執権期にその一字を受けたのではないか。
元徳2(1330)年創建の清涼寺、応安7(1374)年創建の照光寺は、いずれも大掾高幹を開基とすると伝えられ*3、高時が存命の間に高幹は「高」の偏諱を許されていたと考えて良いだろう。
高時が元服したのは延慶2(1309)年、その2年後の父・貞時の逝去に伴って得宗家家督を継ぎ、1316~1326年の間14代執権の座にあった*4。高幹の元服はこの間に行われたと推定される。
史料における高幹
鎌倉幕府滅亡に際しては高時らと運命を共にせず、その後は足利尊氏に従ったようである。「常陸大掾流系図」*5、『常陸三家譜』*6、『系図纂要』*7によると法名は「浄永(じょうえい)」であったといい、以下に示す通り南北朝時代の史料に大掾入道浄永の名が確認できる。幕府滅亡から数年の間に、無官で「十郎」と名乗ったまま出家したようであり、20~30代と若年での剃髪であったと推測される。
●【史料1】建武5(1338=暦応元)年8月日付〈発給者:三浦高継カ〉「税所虎鬼丸(幹治)軍忠状」(『税所文書』):「惣領大掾十郎入道浄永」*8
●【史料2】『関城繹史』:「七月……平高幹叛降賊、大掾系図、桜雲記、廿六日、小田志筑官軍、攻高幹府中石岡城、戦于市河、志筑下河邊氏族、」*9
●【史料3】康永3(1344)年正月日付〈発給者:高師冬〉「税所幹治軍忠状」2通(『税所文書』):「惣領常陸大掾入道浄永」*10、もう一方にも「…浄永存知上者、…」*11とあり。
●【史料4】観応3(1352)年10月日付「鹿島烟田時幹軍忠状」(『烟田文書』):花押を据える発給者が高幹(浄永)か。*12
●【史料5】貞治3(1364)年9月10日付「沙弥浄□〔浄永〕披露状」(『烟田文書』):高幹(浄永)、関東管領に同族・烟田時幹の軍忠を賞するよう請う*13。
●【史料6】『鹿島文書』所収・貞治4(1365)年付書状5点*14:2月2日付 足利基氏書状案の宛名に「常陸大掾入道殿」、以後4点書状の冒頭端裏書に「貞治五三二(※各々年月日の数字)常陸大掾入道被進之」とあり。尚、11月15日付書状は高幹(浄永)自らが発給したもので、「沙弥浄永」の署名と花押が据えられている。
●【史料7】永和3(1377)年10月6日付「関東管領上杉憲春奉書」(『円覚寺文書』):宛名に「常陸大掾入道殿」*15
(参考ページ)
● 大掾氏系図
脚注
*1:清水亮「鎌倉期における常陸真壁氏の動向」(清水亮 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一九巻 常陸真壁氏』(戒光祥出版、2016年)。
*2:平重盛(たいらのしげもり)とは - コトバンク および 北条時政(ほうじょうときまさ)とは - コトバンク より。
*3:清涼寺 | 石岡市公式ホームページ、照光寺 | 石岡市公式ホームページ より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*5:系図綜覧. 第二 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*7:『編年史料』後亀山天皇紀・天授3年9月27日~11月 P.14。
*9:前注同箇所。
*15:『編年史料』後亀山天皇紀・天授3年9月27日~11月 P.12。井原今朝男「室町期東国本所領荘園の成立過程 室町期再版荘園制論の提起」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第104集、2003年)P.21。