毛利泰光
毛利 泰光(もうり やすみつ、1227年頃?~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。父は毛利氏の始祖である大江広元の4男・毛利季光。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
父・季光については、宝治合戦(1247年)で三浦泰村方について自害した時46歳(数え年)であったといい、逆算すると建仁2(1202)年生まれと分かる*1。従って、現実的な親子の年齢差を考えて泰光の生年はおよそ1222年よりは後のはずである。
次に、母親についても確認しておこう。
『諸家系図纂』等の三浦氏の各系図類では、三浦義村の娘の一人に毛利季光(法名: 西阿)*2妻を載せており、「佐野本 三浦系図」によると、広光・信光・泰光・経光の母親であったとする*3。この女性が泰村の妹で季光の妻であったことは次の史料にも記されている。
【史料A】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月5日条*4より一部抜粋
……毛利蔵人大夫入道西阿……彼妻泰村妹、取西阿鎧袖云、「捐若州(=若狭前司・泰村)参左親衛(=時頼)御方之□〔事〕者、武士所致歟、甚違年来一諾訖、恥後聞乎哉□〔者〕」、西阿聞此詞、発退心加泰村之陣、……
季光は当時の5代執権・北条時頼の岳父(妻の父)でもあった*5が、「泰村を捐(す=捨)て時頼の許に参じて御方(=味方)することは武士のすることではない」との妻の言葉を受けて宝治合戦では泰村の陣営に加わったと伝える。
泰村が1204年生まれであるから*6、この女性はそれ以後の生まれということになるが、夫・季光とさほど年齢の離れていない妻であったとみなすのが自然であろう。仮に1205年生まれとした場合、親子の年齢差も考慮して、長男・広光を産んだのが1225年頃とするのが妥当であろう。3男であった泰光の生年は早くとも1227年頃と推定される。
ここで、次の表に着目したい。
年 | 月日 | 表記 |
嘉禎2(1236) | 11.23 | 毛利新蔵人泰光 |
延応元(1239) | 7.2 | 毛利蔵人 |
仁治2(1241) | 6.17 | 毛利蔵人泰光 |
11.4 | 毛利蔵人 | |
寛元元(1243) | 7.17 | 毛利蔵人 |
宝治元(1247) | 6.22 |
同(毛利)三郎蔵人 (父と自害)*8 |
嘉禎2年の段階で「泰光」と名乗っていたことが分かり、既に10代前半の適齢に達して元服済みであったことが窺える。前述の通り、早くとも1220年代後半の生まれと推定されるので、北条泰時執権期間(1224年~1242年)*9内の生誕・元服であることは確実と言って良い。前述の「佐野本 三浦系図」において「元服之時北条泰時加冠、授諱字」と注記される泰村*10と同様に、「泰光」の実名も泰時自らが加冠役(烏帽子親)となり、その偏諱を与えたものと考えて良いだろう。1227年頃の生まれとすると嘉禎2年当時10歳(数え年)となり元服の適齢である。
また「新蔵人」という通称名からは、父・季光や兄・広光に代わって蔵人となったばかりであったことも窺える。季光が16歳、従兄(季光の兄・長井時広の子)にあたる長井泰秀が18歳で蔵人になっていることを参考にすれば、嘉禎2年当時泰光も10代であったことが裏付けられよう。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
尚、『尊卑分脈』では「泰元 蔵 昇殿」 と記される*11が、崩し字の類似から「元」と「光」を混同したものであろう(季光一家の「光」は元々大江重光・大江維光などに由来すると思われるが、維光の子とされる大江広元が用いたこともあってか、広元の子孫ではこの2字が両方使われている)。
関連ページ
● 夢語りシリーズ - Wikipedia:湯口聖子氏による漫画作品で、宝治合戦を描く「六月の子守唄」に毛利泰光が登場する。
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.141「毛利季光」の項。毛利季光(もうり すえみつ)とは - コトバンク。毛利季光 - Wikipedia。
*2:季光の法名が「西阿」であることは『尊卑分脈』(→『大日本史料』5-2 P.657/新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション)のほか、『吾妻鏡』天福元(1233)年11月3日条や『関東評定衆伝』同年条にも「蔵人大夫入道大江季光法師、法名西阿、」(→『大日本史料』5-9 P.304)とあることから裏付けられる。
*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:『大日本史料』5-12 P.558。『諸家系図纂』所収「北条系図」(P.24)。
*6:三浦泰村 - Henkipedia 参照。
*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.317「泰光 毛利」の項 より。
*8:前注同箇所では「同次郎蔵人入道」を泰光とし、「同三郎蔵人」を弟の経光とする(→ 同前P.79「経光 毛利」の項)が、『江氏家譜』や「佐野本 三浦系図」等の系図類では季光の子は広光、信光(光正とも)、泰光、経光の順に書かれており、『吾妻鏡』のこの記事でも「毛利藏人入道西阿 同子息兵衛大夫廣光 同次郎藏人入道 同三郎藏人」の順に書かれているから、『江氏家譜』の通り泰光は3男で「三郎蔵人」と同人と考えて良いだろう。ちなみに経光は難を逃れて生き延び、文永7(1270)年に息子の時親に所領を譲った書状が残されている。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。