Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

斯波宗家

斯波 宗家(しば むねいえ、1250年頃?~1285年)は、鎌倉時代中期の武将。尾張足利氏(のちの斯波氏)の第2代当主。足利家氏の嫡男で、生母は阿蘇為時の娘。実際の史料では足利尾張三郎の通称で呼ばれており(後述史料参照)足利宗家(あしかが ー)と呼ぶのが正式である。 

 

 

父と母について

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▲【図A】『尊卑分脈』〈国史大系本〉*1より

 

父・足利家氏

まずは父の家氏について考察していきたい。というのも家氏もまた生没年未詳だからである。

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先行研究で既に明らかにされているように、その父(宗家の祖父)足利泰氏は建保4(1216)年生まれと判明しており、弟で跡目となった足利頼氏については仁治元(1240)年生まれとするのが有力である。

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従って、現実的な親子の年齢差と頼氏の長兄であることを考慮しただけでも、家氏の生年は1230年代と推定可能である。

 

ここで、前田治の論考*2を参考にしたい。それによると、『吾妻鏡』寛元3(1245)年8月15日条に、この日の鶴岡八幡宮放生会における供奉人のうち後陣随兵の筆頭として「足利三郎家氏」と見えるのが初見であり、この時点で頼氏(初め利氏)の初見時とほぼ同様の年齢であったと推測されている。のち利氏(頼氏)が元服して「三郎」を名乗ったのに伴い、建長4(1252)年頃からは「太郎」を称するようになるが、翌5(1253)年正月16日条では「足利太郎家氏」であったのに対し、同年8月15日条では「五位十五人」の一人として「中務権大夫〔大輔〕家氏」と現れているので、この間に叙爵*3および中務権大輔正五位上相当*4権官補任が行われたことが窺え、20代前半であったとも考えられている。

上記記事で紹介の通り、頼氏(利氏)は1240年生まれで、『吾妻鏡』では13歳(数え年、以下同様)となった建長4年11月11日条の「足利大郎〔太郎〕家氏 同三郎利氏」が初見である。前田氏は寛元3年当時15歳程度と仮定して家氏が泰氏16歳の頃に誕生したと推測されているが、親子の年齢差の面でやや違和感があるので、同じく13歳として2年引き下げても良いのではないかと思う。逆算すると家氏の生年は天福元(1233)年頃と推定される

ちなみに前田氏も紹介の通り、『検非違使補任』文永2(1265)年条には、文応元(1260)年12月24日に検非違使・左衛門大尉となっていた「左衛門大尉従五位下源家氏」が、この年の閏4月25日に尾張に任じられた旨の記載が見られ*5、前述の推定に従えば当時33歳であったことになるが、国守任官の年齢としては十分妥当なものである。 

 

母・北条為時の娘

一方、母については「平為時女」と記されているが、「為時 時頼之弟」とも書かれており、同じく『尊卑分脈』により北条氏と分かる。この頃の "北条為時" に該当し得るのは時頼の弟(初名: 時定)の他に、北条重時の長男(のちの(苅田)時継)が挙げられる*6。もっとも「為時 時頼之弟」とわざわざ記したのはその区別のためと思われるが、後世の書き加えの可能性も考慮して、その正確性を今一度再検証する必要があるだろう。

 

時頼弟の為時については、花押の一致により、『尊卑分脈』では別々に書かれる北条時定と同一人物と判明しており、その生年は時頼が生まれた安貞元(1227)年から、父・時氏が亡くなった寛喜2(1230)年までの間の筈である*7。後述するが弘長2(1262)年には宗家の活動が確認できるので、為時―宗家を外祖父―外孫とするには年齢差の面でやや違和感がある。

 

そのように想定されたのか、熊谷隆之は宗家の母についても苅田時継の娘とされているが、これについても検証すると次の通りである。

『明月記』嘉禎元(1235)年10月16日条には、「駿河守重時最愛嫡男八歳」が疱瘡で死去し、乳母夫妻が哀しみの余り出家したとの記事があり、同月29日条でも6歳となる「駿河守重時次男」が夭折したとの記述が見られる。但し、後者では「後聞虚言」(=後に聞くに、誤報であった)とも記しており、年齢からすると『尊卑分脈』における重時の次男・北条長時(のちの第6代執権/赤橋義宗の父)に比定されるだろうから、前者の「嫡男八歳」が重時の長男・為時(時継)とみなせる。「死去」というのもまた誤報だったようであり、実際は廃嫡されたようであるが、この為時は安貞2(1228)年生まれであったことになる*8

すると、上記2人の為時はほぼ同世代人となり、「為時 時頼之弟」を否定する材料にはなり得ない。【図A】において嫡男・家貞の母を「式部大夫平時継女」と記すくらいなので、一応は宗家の母が時定の娘、妻が時継の娘とするのが妥当と思われる。

但し、いずれにせよ各々の親子の年齢差を10歳程度としなければ、為時(外祖父)―宗家(外孫)の辻褄が合わなくなるので、そもそも「平為時女」の記載そのものが正しいのかについて改めて検討の必要があるかもしれないが、頼氏が母親14歳以下の時に生まれている例*9を踏まえると、北条・足利両氏においてはさほど珍しくなかったと考えても良いのだろう。

 

 

史料における宗家

岡成名に関する関東裁許状の紹介

足利宗家(斯波宗家)については、熊谷氏の論考*10などに詳しい。次に掲げるのは、宗家・宗氏父子の実在が確認できる史料として紹介されている鎌倉時代末期の越中国岡成名(現・富山県高岡市街地の北西、小矢部川の右岸、旧西条村の一帯)に関する関東裁許状2通である。 

【史料B】正慶元(1332)年9月23日付「関東裁許状案」(『朽木文書』)

佐々木出羽五郎左衛門尉(朽木)義綱 今者死去、 長男四郎兵衛尉時経明祐岡成又次郎大夫景光 今者死去、 息男六郎景治孫子次郎友景相論、越中国岡成名事

 

右、訴陳之趣枝葉雖多、所詮、当名者、足利尾張三郎宗家也、義綱為召捕悪党人之賞、嘉元二年十二月二日令拝領訖、景治友景伺雑給之隟{隙}、僅避出田地陸(=六、以下同様)段、以残田畠在家等、号市安・松重名横領、無謂之由、明祐申之処、市安・松重非岡成名内之条、本領主(岡成)盛景建長二年十二月十七日譲状・文永六年十二月十日取帳分明也、時経争可及競望哉之旨、景治友景雖陳之、就件譲状・土帳等、未賜安堵御下文、又不預下知状 云々、輙不足指南、凡安貞年中景治等先祖寄附遠江守朝時以降、地頭書与代官職宛文於本主子孫之条、景治友景承伏之上、景治祖父景長捧建長譲状、得地頭宗家弘長二年八月三日下文畢、如状者、下、散位清原景長、可令早領知越中国西条郷内岡成名田畠事、右、守親父盛景建長二年十二月十七日譲状、可令領掌云々、市安・松重為各別地者、尤可書顕名字欤、別〔引〕載岡成一所之間、譲状謀書露顕之由、明祐之所難非無子細、是一、次市安名建保三年二月四日沽却于他人訖、加之、依京都大番事、宛松重名地頭、正応二年四月十一日已後致支配課役之旨、景治等同雖申之、建保放券状之真偽対旱〔捍〕、雖補地頭、叵{頗}致糺決、如大番催促状者、又松重為岡成名外之段、曾無支証之上、景治曾祖父時景之時、避渡朝時 云々、但以其子孫、多令補地頭代畢、近年為称御家人、恣誘取守護代状欤、敢難許容、是二、市安・松重両名本御下文者、惣領松重彦太郎信光帯持之由、景治申之間、所召問信光也、如信光進覧仁平四年十月廿日譲・正治元年七月十九日・同十月十一日状等者、或以松重名田畠山野譲与(松重)信遠旨載之、或信遠任仁平状預守護代裁許之由、所見也、以法之証文、為■〔糸に寄〕之躰{体}■■〔镸に旁、镸に奇〕之上、号本御下文、雖副進元久二年三月二日状、無正文之間、輙不能信用、是三、随相尋之足利又三郎宗氏 宗家息、 之処、如延慶二年三月廿九日請文者、岡成名父組領知事、承久兵乱之比、地頭名主大略帰遠江守朝時之刻、安貞年中各以所領令寄附、即可補代官職之旨、就望申安堵訖、所務之次第為治息代々賜宛文、済年貢畢、宛身依不領掌、不帯証状云々、田地陸段之外、無寄進儀之際、不可有餘{余}剰之由、景治等称申之条、頗可称𥏹{矯}{飾}是四、就中景治友景、不終沙汰之篇帰国、何為問答、数箇度下奉書之後、仰小泉四郎蔵人義重々所触遣也、如執進景治友景散状者、岡成名不知行之処、寄事於岡成、掠申之条存外也、企参上可明申云々、去年十月已前召対被成敗之間、詫義重同十二月十三日猶加催促畢、如景治今年三月十八日、友景同十九日請文者、可参上之旨、雖載之、于今不参、違背者又無所遁、是五、然則、於彼市安・松重者、為岡成名内、冝{宜}被付于時経、次岡成五郎兵衛尉友業同掃部大〔太〕郎女子尼妙心同四郎兵衛入道娘豊原氏平池三郎後家尼妙心知行分事、就明祐之訴、相触之処、難渋之篇、相同先段、此上停止彼輩之■〔糸に寄〕、可被渡時経、子細同前者、依鎌倉殿(=将軍・守邦親王仰、下知如件、

 正慶元年九月廿三日

右馬槽頭平朝臣(=連署・北条茂時)在判

相模守平朝臣(=16代執権・赤橋守時在判

 

【史料C】正慶元(1332)年11月2日付「関東裁許状案」(『朽木文書』)   

 佐々木出羽前司義綱法師 法名種義今者死去、 長男四郎兵衛尉時経明祐松重清新大夫景朝 今者死去、 子息八郎景式覚賢相論、越中国岡成名事

 

右、就訴陳之状、於引付之座召決両方訖、■〔束に合〕〔袷恰カ〕申詞雖区、所詮、明祐則当名者、足利尾張三郎宗家也、種義募勧賞嘉元二年十二月二日拝領之処、景式等僅避出田陸段、以残下地号市安・松重名、恣令押領之由訴之、景式亦市安・松重非岡成名内之条、本領主盛景 本名時景、 建長二年十二月十七日譲状・文永六年十二月十日取帳炳焉之旨陳之、爰岡成六郎景治同次郎友景等、備件譲状・土帳、雖支申、不賜安堵御下知等之間、難指南之由評定既訖、今更不及予議之上、景式先祖安貞年中寄附遠江守朝時已来、至于宗家之時、書与代官職宛文於本主子孫之旨、景式所自称也、随而景式祖父景長捧父盛景譲状、宗家弘長二年八月三日下文■〔己に十〕{畢}、如状者、下、散位景長、可令早領知越中国西条郷内岡成名田畠事、右、守親父盛景建長二年十二月十七日譲状、可令領掌云々、市安・松重自元為別名者、尤可書顕名字欤、争可引載岡成一所哉、於譲状者、任雅意改之由明祐申也、非無疑詔〔貽カ〕、加之依京都大番事、宛松重地頭、正応二年四月十一日已後被支配課役之旨、景式同雖論之、松重為岡成名之外、可各別之段、支証不分明、凡景式曾祖父盛景雖避渡朝時、至代官職者、多分補盛景跡輩 云々、為称御家人、近年誘取守護代状欤、敢不足許容之上、本御下文者、惣領松重彦大〔太〕郎信光帯持之由、景式等令申之間、尋問之処、或雖献覧仁平・正治譲状等、為状之躰{体}■■〔镸に旁、镸に奇〕也、或雖副進元久御下文案、無〔正 脱字カ〕 云々、輙叵{頗}取信、且如前地頭足利又三郎宗氏延慶二年三月廿九日請文者、岡成名父祖領知事、承久兵乱之時、地頭名主大略帰遠江守朝時之刻、各寄附所領、即望補代官職之旨所見也、以田地陸段号岡成名、其外不可有餘{余}剰之由、景式返答不審之上、当名誠可限陸段者、盛景縦雖寄進之、朝時不可領状欤、况盛景子孫面々叵{頗}競望地頭代之旨、明祐之所申非無謂、然則於彼市安・松重者、任先度成敗、為岡成名内冝{宜}被付于時経、次松重介四郎能景 今者死去、 息男景業知行分事、度々遣召苻、仰使者小泉四郎蔵人義重、去年十二月十二日就加催促、適雖参上、外祖母尼妙蓮今年七月廿日他界之由称之、不終沙汰之篇帰国 云々、難渋至極之上、相論之旨趣、叉不違景式番之間、旁不及異儀、仍子細同前者、依鎌倉殿(=将軍・守邦親王仰、下知如件、

   正慶元年十一月二日

右馬槽頭平朝臣(=連署・北条茂時)在判

相模守平朝臣(=16代執権・赤橋守時在判

*人名は紫色とした。

{ }異体字

*漢字が表示できない箇所は■の後の〔 〕に示した。

 

上記史料2点の詳細については

『角川地名大辞典(旧地名)』解説ページ:岡成名(中世)

もあわせてご参照いただければ幸いであるが、熊谷氏のまとめによると次の通りである。

承久3(1221)年の承久の乱の後、付近の地頭や名主は、乱で幕府方の北陸道大将軍を務めた北条(名越)朝時に帰属し、安貞年間(1227~29年)に所領を寄付して代官職に補されたが、その一つ岡成氏では、建長2(1250)年12月に岡成盛景が息子の岡成景長に譲状を書き、弘長2(1262)年8月には岡成名の地頭であった宗家より安堵の下文を得たという。

その後嘉元2(1304)年12月には、朽木義綱が悪党召し捕りの賞として「足利尾張三郎宗家跡(=旧領)」であった岡成名を拝領するが、これを機に朽木・岡成両氏の相論が始まり、その過程で宗家の嫡子・宗氏が幕府から尋問を受け、延慶2(1309)年3月には伝領の経緯を記す請文を提出したと伝える。

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宗家の世代と烏帽子親の推定

宗家弘長二年八月三日下文」そのものについては、未発見のためか、確認ができないが、小川信によると【 】がその引用部分であるという*11。小川氏は、元々は名越朝時が岡成名の地頭職を領有していた(朝時は岡成名のある越中国の守護も兼ねていた)が、その後は娘である家氏の母(泰氏の妻)を経て、家氏―宗家と継承され、(書状を出す以上)弘長2年の段階では既に成人の域に達していた、と説かれている*12

その一方、吉井功兒も、小川氏の論考に従い文永5(1268)年頃にはも既に幕臣としての活動期に入っていたとするものの、その「」字は当時の執権・北条時から偏諱を受けたものとの見解を示されている*13

これらの話を総合すれば、弘長2年までには元服を済ませていたことになるが、当時の時宗はまだ執権に就任していないのは勿論のこと、父の時頼が存命で家督も継いでいない "得宗家嫡子" の立場に過ぎなかった。しかし、建長8(1256=康元元)年の時頼出家後には、金沢(のちの顕時)が時頼の邸宅で宗の加冠により元服した例があり、これは元服したばかりの時宗を亭主である父・時頼が烏帽子親に指名したものと考えられている(下記記事参照▼)。 

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このように時頼の指名により時宗が烏帽子親を務めた例がこれだけに留まっていたとは限らないだろう。もっとも、当時の6代将軍・宗尊親王からの一字拝領の可能性も否定はできないが、宗家以降「家経」が得宗時―時」と烏帽子親子関係を結んでいたと推測されることからしても、顕時と同様にが烏帽子親であったと考えるのが妥当ではないかと思う。

 

よって、弘長2年に元服適齢の10数歳を迎えていたとすると、1250年頃の生まれと推定できよう。ちなみに孫の高経は1305年生まれと判明しており、祖父―孫の年齢差を考慮すれば、遅くとも1265年までに生まれていた筈であるから、時宗が亡くなる弘安7(1284)年までに適齢を迎えて元服していることは確実と言って良いと思う。また、前述した父・家氏との年齢差の面でも問題ないだろう。

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従五位下

ここで、あわせて次の史料も見ておきたい。

【史料D】『勘仲記』弘安5(1282)年11月25日条

(前略)

今夕被行小除目僧事、

権少外記中原師鑒、兼、     侍従藤原公尚、

少内記家弘、        伊勢守藤盛綱、

伊豫守源家時、    按察卿二男右近少将源親平、

従四位下祝部行昌、     正五位下中原師國、四位外記巡年叙也、

小槻兼賀、四位縫殿権助叙也、  従五位下源宗家

清原泰尚、

 (以下略)

この史料中の「伊予守源家時」は、「瀧山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五才、*14とある足利家時に比定される。清和源氏の人物が伊予守に補任されたのは、源義経以来97年ぶりのことであり、時宗による対蒙古政策としての源氏将軍復活(7代将軍・源惟康を初代・源頼朝になぞらえる)に連動した “義経の再現” を意図したものだったのではないかとされる*15

ここでもう1つ注目すべきなのは、この除目において「源宗家」が家時と同じ従五位下に叙されていることである。この当時で該当し得るのは足利宗家しかいないだろう*16。恐らくこの時に左近大夫将監となった*17ものとみられる。 

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霜月騒動での没落

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▲【図E】『続群書類従』所収「最上系図」より*18

こちらの系図に「奥州時被討」と注記される通り、「奥州」=陸奥入道安達泰盛の一族が討たれた霜月騒動(1285年)の時に宗家も討たれた、と解釈されている。 

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前述した通り、嘉元2年の段階で朽木義綱が拝領した岡成名が「足利尾張三郎宗家(=旧領)」であったから、熊谷氏が説かれる通り「奥州時被討」の記載は正しいと判断される。

従来の研究では、嘉元3(1305)年の嘉元の乱に際し、連署北条時村殺害犯の一人、白井小次郎胤資(白井胤資)を預かる「尾張左近大夫将監*19宗家に比定する説が長らく信用されていたが、これについては熊谷氏により名越公貞の誤りであることが明らかにされている(こちら▼の記事参照)。

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(参考ページ) 

 斯波宗家 - Wikipedia

 

脚注

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.258。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。

*2:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.187。

*3:律令制で、初めて従五位下を授けられること(→ 叙爵(ジョシャク)とは - コトバンク)。

*4:中務の大輔(なかつかさのたいふ)とは - コトバンク より。

*5:注2前掲前田論文(注2前掲田中氏著書)P.209 註(41)。

*6:熊谷隆之「ふたりの為時 : 得宗専制の陰翳」(所収:『日本史研究』611号、日本史研究会、2013年)北条為時 - Wikipedia より。

*7:北条時定 (時氏流) - Wikipedia より。

*8:北条時継 - Wikipedia より。

*9:注2同箇所。

*10:熊谷隆之「斯波宗家の去就 ―越中国岡成名を緒に、霜月騒動におよぶ―」(所収:『富山史壇』181号、越中史壇会、2016年)

*11:小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1982年)P.368。

*12:前注同箇所。

*13:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:注2前掲田中氏著書)P.167。

*14:注2前掲田中氏著書P.402、注2前掲前田論文(同書P.189)。この記事に信憑性があることは、新行紀一「足利氏の三河額田郡支配―鎌倉時代を中心に―」(同書P.286)で述べられており、家時の正確な生没年の根拠となっている。「伊与」は「伊予」の別表記である。

*15:注2前掲前田論文(注2前掲田中氏著書P.203)。

*16:源姓で「宗家」を名乗る人物は、『尊卑分脉索引』〈国史大系本〉P.220で確認できる限り、源宗家(三条天皇の曾孫・従四位下、三巻P.558・559)と足利宗家(三巻P.258、四巻P.144)の2名のみであり、年代と官位が一致するのは後者である。

*17:『尊卑分脉』以下の足利系図による。『尊卑分脉』四巻P.144の略系図では「右近衛将監」とするが誤りか。

*18:群書系図部集 2 - Google ブックス

*19:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。