Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井宗衡

長井 宗衡(ながい むねひら、1270年頃?~1355年頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。通称は次郎、丹後守(丹後前司・丹後入道)

長井茂重(もちしげ)の次男。母は不詳。兄に上山宗元、子に長井秋衡がいる。

 

 

史料上における宗衡

まずは、長井宗衡の実在および活動について確認できる史料を紹介したいと思う。以下列挙する。

 

【史料1】(正中2(1325)年?)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*1:文中に「一.縫殿頭同持参之時、出羽左近大夫入道・丹後前司・小早川安芸前司(=小早川宣平*2・水谷兵衛蔵人(=水谷秀有*3・佐々木源太左衛門尉(=加地時秀等、同参之旨、承候了、」

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佐々木紀一は縫殿頭=長井貞重と共に参加する「出羽左近大夫入道」を長井頼秀法名:道可)に比定される*4が、同じく苗字を冠しない「丹後前司」も長井氏一門の宗衡であろう。これが正しければ、この史料が初見ということになり、この頃は丹後守を既に辞していたことになる。

 

【史料2】『光明寺残篇』元弘元(1331)年8月25日*5:「廿五日。万里小路大納言宣房卿侍従中納言公明卿宰相成資〔ママ〕別当右衛門督実世卿、以上四人、被召捕之。於宣房被預因幡左近大夫将監公明者被預波多野上野前司成資〔ママ〕者被預丹後前司実世卿筑後前司被預之。……」

いわゆる元弘の変に関する史料である。同年に倒幕の挙兵の計画が露見し、8月24日に後醍醐天皇が御所を脱出すると、翌25日に京に残っていた後醍醐腹心の公家たちが一斉に捕縛された。その一人「成資」は、「なりすけ」と読めることや「宰相」と呼ばれることから "平宰相" こと平成輔に比定され、その身を「丹後前司」が預かったという(翌年に処分が言い渡され、河越貞重が鎌倉の手前まで護送の上で斬首刑となった)

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【史料3】『太平記』巻2師賢登山事付唐崎浜合戦事*6:「……搦手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡筑後前司貞知(=小田貞知)波多野上野前司宣道(=波多野宣通)常陸前司時朝に、美濃・尾張丹波・但馬の勢をさしそへて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄懸たり。……」

【史料2】から間もない8月27日、後醍醐が比叡山へ立てこもったものとみた六波羅探題が東坂本比叡山の東入口、大津側)と西坂本(京側)の両面に軍勢を差し向けたが、東坂本方面に出陣した中に宗衡が含まれている。

【史料2】光明寺残篇』でも27日条に「被差向佐々木大夫判官・海東備前左近大夫・波多野上野前司等。於山門東坂下(=東坂本)。」とほぼ同内容の記述が見られるが、「等(など)」の中に宗衡が含まれるかどうかは明記されていない。但し、この日に軍勢を差し向けた後、春宮(=皇太子)量仁親王(のち9月20日に即位して光厳天皇が御所の持明院殿から、同じく持明院領の六条殿に"行啓"した際に「供奉軍兵」として「丹後前司筑後前司」ら数百騎がお供をしたとあり、『太平記』巻2でも次の「持明院殿御幸六波羅事」にほぼ同内容のストーリーが描かれている(『太平記』は元々軍記物語である)ので、厳密にはこちらが正しいのであろう。

 

いずれにせよ、『太平記』で実名が明かされていることにより、以上3つの史料での「丹後前司」は宗衡に比定して良いだろう

*ちなみに、下沢敦氏は『光明寺残篇』・『太平記』双方の内容を総合し、東坂本(唐崎)方面への搦め手の軍勢の中に交っていた宗衡が、同じ27日のうちに京都へ取って返して「供奉軍兵」を務めるのは時間的にほぼ不可能であるとして、「丹後前司」と「長井丹後守宗衡」が別人の可能性も考えられるとする*7が、筆者は単に『太平記』が軍記物語ゆえの脚色として宗衡の登場箇所を少し変えただけではないかと推測する。下沢氏自身が述べられている通り、時間的な制約については「筑後前司貞知」も全く同じ条件下にあったと言え、「丹後前司筑後前司」=「長井丹後守宗衡筑後前司貞知」と見なすのがやはり自然ではないか。『太平記』での搦手軍は、実際は量仁親王随行した宗衡と貞知を加えて誇張したものと判断され、「丹後守」も本来「丹後前司(または前丹後守)」とすべきところをわざと変えたものであろう。

 

【史料4】元弘3(1333)年5月13日付「伊達道西(貞綱)軍忠状」:「……去月八日兄弟三人、道西、宗幸、宗重等、押寄二條大宮、焼拂〔払の旧字体丹後前司之役所、……」*8

同月22日に鎌倉幕府が滅亡する直前のタイミングで出された書状であるが、4月8日の合戦において、千種忠顕の軍勢に馳せ参じていた貞綱法名:道西)・宗幸・宗重の伊達三兄弟*9が「二条大宮」に押し寄せ、「丹後前司役所」を焼き払ったと伝える。下沢氏の研究によれば、ちょうどこの頃の成立とされる『沙汰未練書』での定義に従えば、この "役所" とは「在京人役所」であった京都の篝屋*10と推測され「丹後前司」が在京人であったことになるから、【史料1】~【史料3】での「丹後前司(=宗衡)」と同人と見なして問題ないだろう*11

幕府滅亡の直前まで宗衡が六波羅探題に従っていたことが窺え、この時も何とか敵方を撃退したようであるが、対する後醍醐方の伊達氏側でも、伊達宗幸が左肩を射られ負傷、「家人和田次郎、中間十郎太郎」が討ち死にするなどの損害を受けている。【史料4】は伊達入道道西が彼ら死傷者も含む家臣たちの軍忠を上申するために書いた披露状となっている。

 

 ★元弘3年5月7日:六波羅探題滅亡。

 同月22日:鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)。

 

【史料5】建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」鎌倉幕府滅亡後に発足した建武新政下で、雑訴決断所の寄人七番の一人に「長井丹波前司 宗衡〔「丹」は「丹」の誤記〕*12足利高氏(のち尊氏)に同調して後醍醐天皇に恭順したことが窺える。

 

【史料6】建武元年9月27日?)「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』):「汲兵」の一人に「長井丹後前司宗衡*13

 

 ★この間に出家か(法名不詳)。

 

【史料7】康永3(1344)年3月21日付引付番文(『結城文書』)の五番:「長井丹後入道*14

 

【史料8】正平10(1355=文和4)年3月27日付 軍忠状(『毛利文書』)の宛名「長井丹後入道*15 

【史料9】正平10年8月3日付 軍忠状(『毛利文書』)の宛名「長井兵衛蔵人*16

2番目の「長井兵衛蔵人」は、『江氏家譜』に宗衡(次郎、丹後守)の息子として掲載の長井秋衡(あきひら、蔵人大夫)に比定される*17。上の文書2点はいずれも南朝から軍功を賞されたもので、宗衡・秋衡父子が南朝に忠節を尽くしていたことが分かる。  

 

 

宗衡の系譜について

宗衡が大江姓長井氏の人物であることは系図類で確かめられるが、その種類によって家系が異なっている。下に3つの例を挙げる。

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A.『那波系図』新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)より

B.『毛利家系図』国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本)より

C.『尊卑分脈』吉川弘文館刊「国史大系」本)より

 

Bでは茂重の子で次郎を仮名(輩行名)とし丹後守になったと記されるのに対し、AとCの系図では運雅(うんが)の子で因幡守に任官したとする。これについて佐々木氏は、Bで上山泰経の娘に「丹後守茂重妻 修理亮宗元母」とわざわざ記し、永正本系図でも泰経の娘に「因幡二郎茂重妻」の注記が見られるから、茂重―宗元(宗光とも)の父子関係が認められるとし、Bにおいて(縦書きで)運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、Cで系線の引き間違えが生じてしまったのではないかと説かれている*18。Aについても、貞頼・運雅兄弟の下に書かれたために、各々の息子とする線の記入ミスがなされたものと見受けられる。

Bの通り、太郎宗元が茂重の長男、次郎宗衡が次男であったとみなして良いだろう。B・Cを総合すれば、上山泰経の外孫であった兄の宗元が上山氏の名跡を継承し、代わって弟である宗衡が父・茂重の跡(茂重流長井氏)を継いだと判断される。 

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烏帽子親の推定

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ところで、武士の家系は普通、1つの字を通字として継承するものであり、泰重流長井氏も「重」が代々用いられるなどその例外ではなかったが、その中で兄弟は「」字を共有し、父・茂重から1字を継承していない。勿論、他氏も含め父の字を継承しないケースも珍しくはなかったが、兄弟間で「」という同じ字を持つのには何かしらの理由があると考えて然るべきである。宗元の息子も同様で「貞泰(または貞元)」と名乗っているからである。

そうした観点から兄弟の実名に着目すると、宗元の「元」は大江広元宗衡の「衡」は大江匡衡や大江成衡といった具合に、先祖と仰ぐ人物に由来することが分かる。わざわざ上(1文字目)にしていることからしても「」は烏帽子親からの一字拝領を想起させるが、これは得宗鎌倉幕府第8代執権の北条時(在職:1268年~1284年)*19からの偏諱に間違いないだろう。兄・宗元の系統(上山氏)を見ると、宗元の息子は次の得宗(9代執権)北条貞時の1字を受けたとみられ、『常楽記』ではその次の得宗(14代執権)北条高時の1字を持つ上山高元の実在も確認できる*20

 

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上記記事で祖父・泰重が1220年頃の生まれ、伯父・頼重が1243年頃の生まれと推定した。従って頼重の弟である父・茂重の生年は早くとも1245年前後と考えられるから、親子の年齢差も考慮すれば、宗元・宗衡兄弟は1260年代半ば以後の生まれと推測可能である。

そして、この2人は時が亡くなる弘安7(1284)年4月までに元服の適齢である10代前半に達して「」字を拝領したと考えるべきであろうから、遅くとも1270年頃には生まれていたとも推測可能である。よって宗元・宗衡兄弟の生年は1260年代後半の生まれと推定される。次の図に示したように、惣領家で同じく「宗」字を持つ長井宗秀とは "はとこ"(=ともに大江広元の玄孫)の関係で、ほぼ同世代人であったことになる。

 

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また、【史料1】に戻ると、正中2(1325)年の段階で宗衡は50代の年齢であったことになるが、丹後守を辞した後の年齢として全く問題ないだろう御家人の国守任官は概ね30代以上で行われることが多かった)

 

 

(参考ページ) 

 長井宗衡(ながい むねひら)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 長井宗衡

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第37巻29177号。

*2:『浦家文書』所収「浦家家系」には、土肥実平以降の歴代当主の名が記されており、「浦左衛門太郎氏実」の父を「小早川安藝守宣平」とする(→『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二・附録「浦家文書」一〇八号 参照、氏実は「宣平七男」と記される)が、年代的にも妥当であろう。宣平が安芸守であったことは、『小早川家文書』に息子の氏平(小泉氏祖)が「小早河安藝五郎左衛門尉氏平」と表記された書状が幾つか収録されていることからも裏付けられよう。

*3:注1同箇所による。ちなみに秀有は『尊卑分脈秀郷流水谷氏系図および大江流水谷氏系図双方に掲載あり。

*4:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.18 注(20)。

*5:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.726。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*6:「太平記」師賢登山の事付唐崎浜合戦の事(その3) : Santa Lab's Blog より。

*7:下沢敦「『太平記』の記述に見る京都篝屋」(所収:『共栄学園短期大学研究紀要』第18号、2002年)P.189~190、および P.180 注(69)。

*8:『大日本古文書』家わけ第三 伊達家文書之一 P.2 二号

*9:道西の俗名(=貞綱)や伊達氏支流の但馬伊達氏については、但馬伊達氏とその一族の系譜前注同文書 P.13~15 二〇号「(雲但)伊達家系図」を参照のこと。

*10:鎌倉時代において、京の警固に当たった武士の詰め所のこと。篝屋(カガリヤ)とは - コトバンク 参照。

*11:注8前掲下沢氏論文 P.190~191。

*12:『大日本史料』6-1 P.756

*13:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号

*14:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。注5前掲小泉氏論文 P.733。

*15:『大日本史料』6-19 P.762

*16:『大日本史料』6-19 P.863

*17:前注同箇所。

*18:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.6~7。

*19:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*20:『大日本史料』6-11 P.301