Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

上山宗元

上山 宗元(かみやま むねもと、生年不詳(1260年代後半?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将。通称は太郎、修理亮、備前守系図によっては「宗光 (むねみつ)」とするものもある。

長井茂重(もちしげ)の長男。母は上山泰経の娘。弟に長井宗衡がいる。

 

まずは、次の系図3種をご覧いただきたい。 

f:id:historyjapan_henki961:20190927030318p:plain

A.『那波系図』新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)より

B.『毛利家系図』国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本)より

C.『尊卑分脈』吉川弘文館刊「国史大系」本)より

 

一部系線が異なる箇所があるが、宗元(むねもと)の近親者(弟または従兄弟)宗衡(むねひら)を載せ、「貞」字を持った息子(貞泰または貞元)を持つ点では3つとも共通している。そして、「元―」という系譜だけ見ると、北条氏得宗」からの一字拝領を想起させる。

 

ところが、A・Cでは宗元・宗衡が長井貞重の甥となっている。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちらの記事▲で述べたように、重は得宗・9代執権の北条時から偏諱を受けたことが確実である。従って元・衡がその甥(弟の息子)であれば、元服は貞重より後になるはずで、亡き8代執権・北条時(貞時の父)から「宗」の偏諱を賜ることは不可能となる。

しかし元・衡の名乗りは、「元」が大江広元、「衡」が大江匡衡または大江成衡といった祖先と仰ぐ人物から1字を取ったものとみられるから、兄弟ないしは従兄弟関係で共通する「」が烏帽子親からの偏諱と考えるべきであると思われる。

 

その観点からBの系図に着目すると、元・衡兄弟が貞重の従兄弟となっている。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

頼重の生年についてはこちらの記事▲で推定したが、30歳位の時に嫡男の貞重が生まれたことになる。10代後半~20代で授かることも多かった鎌倉時代当時としては遅めともいえよう。故に、茂重が頼重より若干年少の弟で、貞重が生まれるよりも前に宗元・宗衡兄弟を20代で授かったと想定することは十分可能と思われる。

系図Cを見ると、泰経に「上山(=上山氏)」との注記があり、『福原家譜』8巻によれば備後国世羅郡上山郷(現・広島県三次市三和町付近)を領したのに因んで称したという*1が、同じ「上山」の注記が宗元の項にもある。また系図Bを見ると、泰経が「上山と号し」、娘が丹後守茂重に嫁いで修理亮宗元の母になったとある。長井氏の分家として時広の庶子・泰経が上山氏を立てたが、男子に恵まれなかったのか、外孫(娘の子)である宗元がその名跡を継いだと考えるのが良いだろう。

 

佐々木紀一は、系図Bの他に永正本系図でも泰経の娘に「因幡二郎茂重妻」の注記が見られるから、茂重―宗元(宗光とも)の父子関係が認められるとし、Bにおいて(縦書きで)運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、Cで系線の引き間違えが生じてしまったのではないかと説かれている*2が、筆者も同意である。Aについても、貞頼・運雅兄弟の下に書かれたために、各々の息子とする線の記入ミスがなされたものであろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

以上より、元・衡兄弟は茂重の子で、貞重とは従兄弟関係にあったと判断され、上記記事で宗衡の生年を1270年頃と推定し、ともに北条時偏諱を受けたとしたが、次の観点からも裏付けられよう。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で紹介の通り、『常楽記』には「上山修理亮(=上山高元)」が貞和4(1348)年1月5日に38歳で戦死した旨の記載が確認でき*3、逆算すると1311年生まれである。この人物は最後の得宗・北条時の偏諱を許されたとみられ、「」の字と「修理亮」の官職が宗元に通ずる*4 ことからも、元―(または泰)元と3代に亘って得宗(時時―時)と烏帽子親子関係を結んでいたことが推測される。宗元は高元の祖父またはそれと同世代人であったとみなせるから、祖父―孫の年齢差を考慮すれば1270年頃までには生まれていたと推定可能で、前述の内容に合致する。

*そして、このことは宗元が運雅の子ではないことを補強するものとなる。宗元が1272年生まれの貞重*5の甥であれば、1311年生まれの高元とほぼ同世代となってしまう。その場合宗元の弟・宗衡は、鎌倉幕府滅亡前の段階で丹後守を辞していることは史料で確認できるので、10数年で国守へと昇り詰めたことになるが、長井氏本家ですら20代後半で国守に任官したのを上回るのはあり得ないと言って良いだろう。また、宗元=修理亮高元と仮定しても弟の宗衡より下の官位であったことになって不自然であり、宗元の最終官途を備前守と載せる系図類にも矛盾する。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

下の図で示した通り、惣領家で同じ字を持つ長井とも大江広元の玄孫という共通点があり、ほぼ同世代人であったと判断できる。

 

f:id:historyjapan_henki961:20200307013234p:plain

 

宗元・貞泰父子の事績については史料が未確認のため不明であるが、『萩藩閥閲録』にはそれ以降の家系(宗元―貞泰―宗家―昭泰―元信―広房(実広)―広信重広元理(元忠)広忠*6が載せられており、室町~戦国時代にかけて山名氏、次いで同じく大江広元末裔の毛利氏に仕えた。

 

脚注

*1:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.761。

*2:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.6~7。

*3:『大日本史料』6-11 P.301

*4:この理由から、茂重の長男が「宗元」を名乗っていたことは間違いないと思われる。「宗光」を別名として名乗っていたかについては史料的な裏付けが出来ないので判断を差し控えたいが、毛利氏なども含め大江氏一族での「元」と「光」の誤記・混乱は系図上で散見される。

*5:長井貞重 - Henkipedia 参照。

*6:『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」巻末に所収。重広までの系図は注1前掲小泉論文 同頁にも掲載あり。