Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

上山貞泰

上山 貞泰(かみやま さだやす、1290年頃?~没年不詳(1330年代?))は、鎌倉時代後期の武将。

 

『尊卑分脈』『毛利家系図』*1、『萩藩閥閲録』所収の上山氏系図*2上山宗元の子として載せられており、「従五位下」「左衛門尉」「因幡守」の注記が見られる。

宗元・貞泰父子の事績については史料が未確認のため不明であるが、『萩藩閥閲録』には貞泰の子・上山宗家(むねいえ)以降の系譜が載せられており、上山広房(実広とも)以降の当主は実際の史料にも現れている*3から、その祖先として実在は認めても良いだろう。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・については、『尊卑分脈』や『萩藩閥閲録』のように長井運雅(うんが)の子とする系図もある*が、正しくは1260年代後半、長井茂重(もちしげ)と上山泰経の娘との間に生まれた長男で、「」は得宗北条時宗からの一字拝領と推定した。

*『萩藩閥閲録』上山氏系図では嗣子の無かった貞頼が若宮別当・連雅〔運雅の誤記か〕の長子・宗元を養子に迎えたとあり、『那波系図』新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)でも宗元を貞頼の実子とする。これらは『毛利家系図』で運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、尊卑分脈』において系線の引き間違いが生じたのに起因して誤解されたものとみられる*4

 

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また、こちら▲の記事で紹介の通り、『常楽記』には「上山修理亮(=上山高元)」が貞和4(1348)年1月5日に38歳で戦死した旨の記載が確認でき*5、逆算すると1311年生まれである。「」の字と「修理亮」の官途が通ずることから上山宗元の子孫の可能性が高く、「」は最後の得宗・北条時宗の孫)からの一字拝領と推定される。

 

貞泰は宗元の子であるから、生年は早くとも1290年前後の筈だが、そうすると高元とは親子とするのにちょうど良い年齢差であると言えよう。貞泰―高元を親子とみなす史料や系図類は今のところ確認されていないが、元・泰・元の実名は各々、歴代の北条氏得宗(時時―時)から偏諱を賜ったものと判断される。

前述の『那波系図』では宗元の子を「貞元」 としており、貞泰と同人(「元」が「泰」の誤記)か兄弟かは分からないが、いずれにせよまたは元が高元の父親であろう。「」の字は正安3(1301)年まで9代執権の座にあった北条を烏帽子親として元服した折に賜ったものと推測される。

 

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下の図で示した通り、惣領家で同じ字を持つ長井とも長井時広の玄孫という共通点があり、世代的に近い人物であったと判断できる。

 

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前述の通り事績については不明なので、没年不詳であるが、因幡守になったとの系図での記載が信用できれば、国守任官に相応の30代以上は生きていたと考えられる。但し、貞和4年の段階で既に高元が活動期間に入っていたことを考えると、鎌倉幕府滅亡の頃に貞泰の隠退または死去による家督の交代があったと考えても良いかもしれない。この辺りは新たな史料の発見等による後考を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:国立歴史民俗博物館蔵、高松宮家伝来禁裏本

*2:『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」所収。

*3:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.761 によると、上山氏関係の古文書の上限は、宛名に「上山加賀守殿」とある永正4(1507)年12月13日付「山名致豊書状」(→ 『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」)であるといい、この加賀守は系図より広房に比定される(→ 『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」)。

*4:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.6~7。

*5:『大日本史料』6-11 P.301