Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井高冬

長井 (ながい たかふゆ、1314年~1347年)は、 鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。大江姓長井氏嫡流の当主。のち長井(読み同じ)に改名。通称は備前二郎、右馬助。

 

 

関係史料の紹介と烏帽子親について

まずは、長井挙冬 - Wikipediaでも紹介されている、史料における登場箇所を以下に列挙する。

【史料A】『鎌倉年代記』裏書/『北条九代記』元弘元(1331)年条*1:「十一月討手人々并両使下著〔下着。同日長井右馬助高冬信乃入道々大。為使節上洛。」

【史料B】『花園天皇宸記』元弘元年11月26日条*2:「今日東使高冬上洛云々。」

【史料C】元徳4(1332)年4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」(『東大寺文書』)*3:「……正地頭長井備前二郎高冬之計……」

【史料D】(正慶元(1332 元徳より改元)年?)5月20日付「覚順書状」(尊経閣蔵『長谷勘奏記』紙背)*4:「……給主長井右馬助年々未進間、……」

【史料E】正慶元(1332)年7月10日付「茜部荘雑掌定尊重申状」(『東大寺文書』)*5:「……当庄地頭長井右馬助高冬代大夫阿闍梨(=代官・長井桓瑜)不知実名……」

【史料F】正慶2/元弘3(1333)年2月日付「東大寺申状案東大寺訴状土代)(『東大寺文書』)*6:「……就中如当地頭右馬助高冬去年請文者、……」

 

 ★元弘3年5月22日、鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)。

 

【史料G】「毛利元春自筆事書案」(『毛利家文書』)*7:「一.元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近□□〔大夫〕貞親、於越後国、阿曽宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅感〔勅勘〕、惣領長井右馬助被預置畢、」

【史料H】『常楽記』貞和3(1347)年条*8

三月廿四日 長井右馬助擧冬他界三十四

 

これらを見ると、ほぼ一貫して「長井右馬助」と称されているものの、1333(元弘3/正慶2)年の鎌倉幕府滅亡前の段階では、諱(実名)が「高冬」であったことが窺える。既に先行研究でご指摘の通り、「高」と「挙」が共に「タカ」と読める(後述参照)ことから、挙冬は当初得宗北条偏諱を受けて「冬」と名乗っていたが、幕府滅亡後に改名したことが分かる*9。「高」と同じ読み方をする、祖先・大江挙周の「挙」*10を選択したようだが、小泉氏の見解によると、【史料B】にあるように、幕府滅亡前に太田時連(法名:道大)と共に東使として上洛した高冬が「関東事書」を光厳天皇に奏上する形で後醍醐天皇配流問題に直接関与したことを憚っての改名であったとされる。

そして『常楽記』(【史料H】)にある通り、高冬(挙冬)は貞和3(1347)年3月24日に34歳(数え年、以下同様)で亡くなったというから、逆算すると正和3(1314)年生まれ北条高時が14代執権を辞して出家した正中3(1326=嘉暦元)年当時13歳と元服の適齢となるので、高時執権期間(1316年~1326年)*11内に元服を行ったことは確実と言って良いだろう。

 

 

系譜についての一考察

あわせて、先行研究で指摘されてこなかった一つの問題について考察してみたい。

『尊卑分脈』等の系図類で、挙冬は貞懐・広秀に次ぐ長井貞秀の3男とされる。前節で述べた通り貞時の子・高時から偏諱を受け、幕府内では東使を任されるほか、長井氏においても祖父(貞秀の父)宗秀から美濃国茜部荘地頭職を継承するなど、事実上貞秀の後継者的な立場にあったことは間違いない。

しかし、貞秀は延慶2(1309)年には亡くなっていたといい、その5年後に挙冬が生まれたことになってしまうから、父子関係とするには明らかに矛盾していると言わざるを得ない。しかも後に永井晋が史料に基づいて貞秀の没年を延慶元(1308)年と修正されており*12、更に遠ざかるばかりである。

ここで【史料C】に着目すると、挙冬(高冬)が右馬助任官前「備前二郎」と呼称されていたことが分かる。父親が備前守でその次男を表す通称であるが、貞秀が備前守であった経歴は無い。よって系図類に書かれる「貞秀―挙冬」の父子関係は誤記と疑うべきであろう

 

では、備前守であったという挙冬の父は誰なのか。結論から言うと、恐らく一部の系図で記載される長井冬時(ふゆとき)が該当するのではないかと思う。

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この図に掲げた通り、冬時は『毛利家系図*13や『系図纂要』において貞秀・時千の弟として載せられており、「蔵人左衛門」「備前守」「左馬助」の注記がある。年代的に考えても、挙冬の父・備前守に相応の条件を満たしている。前者では「冬明(ふゆあき)」という別名も記載されるが、挙冬が一貫して使っていた「冬」の字はこれに無関係ではないのではないか。従って「冬時―高冬(挙冬)」という系譜が正しいと推測される。

 

ここで、再度『常楽記』の次の一節に着目したい*14

正中三 嘉暦元 年 十二月廿八日 長井備前入道是澄他界三十

1326年12月28日に長井是澄(ぜちょう)なる人物が30歳で亡くなったと伝えるが、逆算すると1297年生まれである。「備前入道」という通称名から、入道(出家)して「是澄」と名乗る前に備前守であったことが分かる。長井氏関東評定衆家において、国守任官の目安は20代後半~30歳程度であったから、備前守となって間もなく出家したのかもしれない。この人物は挙冬(高冬)が生まれた1314年当時18歳であったことになり、やや若年とも言えるが、他の例も踏まえればその父親として決しておかしくはないと思う。

また是澄=冬時だとすれば、父・長井宗秀が33歳の時の子となるが、長兄の貞秀が1280年頃の生まれで、次いで次兄の長井時千(輩行名は次郎)*15が生まれていることも考慮すれば、十分に妥当な推定ではないか。

以上より、「長井備前二郎高冬(=挙冬)」の実父は長井冬時で、「長井備前入道是澄」はその法名であったと推測される。

 

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脚注

*1:『編年史料』元弘元年10~12月 P.84

*2:『編年史料』元弘元年10~12月 P.100

*3:『鎌倉遺文』第41巻31745号。『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 五九〇号(P.161)

*4:『鎌倉遺文』第41巻31753号。

*5:『鎌倉遺文』第41巻31775号。『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 五九四号(P.167)

*6:『鎌倉遺文』第41巻32516号。『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 五五三号(P.16)

*7:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)

*8:『常楽記』(龍門文庫蔵古写本)より。

*9:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.719。紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.16。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「基礎表」No.137「長井挙冬」の項。

*10:『尊卑分脈』を見ると大江匡衡の子・挙周に「タカチカ」とルビが振ってある。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*12:これについての詳細は 長井貞秀 - Henkipedia を参照のこと。

*13:国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本。図の翻刻佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.12 より引用。

*14:『常楽記』(龍門文庫蔵古写本)より。

*15:系図によって「時干」・「時于」と書かれるものもあるが、いずれも字の類似による「時千」の誤読・誤写であろう。「千」は祖先の大江千古から取ったものと考えられる。長井時千の経歴については 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№139-長井時千 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照。