Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井泰茂

長井 泰茂(ながい やすしげ/やすもち、生年不詳(1220年代前半?)~1276年?)は、鎌倉時代前・中期の人物、御家人。通称は長井判官代、出羽守。『福原家譜』7巻系図によると長井時広の5男で、法名は禅心。

 

 

北条泰時の烏帽子子

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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上記それぞれの記事では、長兄・泰秀の生年が1212年で、次兄・泰重も1220年頃の生まれと推測されることを述べた。よってその弟とされる泰茂は1220年以後に生まれたと推定される。

 

吾妻鏡人名索引』によると、『吾妻鏡』での登場箇所は以下の通りであるという。

 

【表A】『吾妻鏡』での泰茂の登場箇所*1

月日 表記
嘉禎元(1235) 12.24 長井判官代
建長6(1254) 1.22 長井判官代泰茂
康元元(1256) 1.1 長井三郎蔵人 同判官代
正嘉元(1257) 10.1 長井判官代泰茂
12.29 長井判官代泰元〔ママ〕
正嘉2(1258) 1.1 長井判官代
1.7 長井判官代
6.17 長井判官代
文応元(1260) 1.1 長井判官代
4.1 長井判官代
弘長元(1261) 1.1 長井判官代

 

「判官代」とは、「別当・執事・年預に次ぐ院庁の事務官」または「国衙領・荘園の現地にあって、土地の管理や年貢の徴収などを司った職員」のことである*2。特に前者は五位・六位の蔵人を当てたといい*3、【表A】において「判官代泰茂」と書かれる箇所があることからしても、少なくとも嘉禎元年の段階で既に元服済みであったと判断される。 

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こちら▲で紹介の通り、2年前となる天福元(1233)年の段階では、次兄・泰重が無官のため「次郎」とのみ呼ばれていたことが確認できるので、当時の泰茂も「五郎」等を称していたのではないか泰茂はおよそ1220年代前半に生まれ、この頃に元服の適齢を迎えたと判断される。「」の名も、兄たちに同じくこの当時の執権・北条 (在職:1224~1242年)*4偏諱を受けたものに間違いないだろう。

 

 

美濃国茜部庄地頭として

吾妻鏡』は6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年7月で途切れるが、その後の泰茂については『東大寺文書』に関連の書状が収録されている。

小泉宜右の研究によると、文永3年12月6日付「六波羅御教書案」の宛名に「(美濃国茜部庄)地頭殿*5、同6(1269)年10月27日付「美濃茜部荘預所賢舜重訴状案」に「当庄者正員地頭殿 出羽守殿、」とある*6が、この出羽守は、同7(1270)年後9月10日付書状の発給者「前出羽守泰茂*7に比定されるという*8

【史料B】文永7(1270)年 後9月10日付「長井泰茂書状」(『東大寺文書』)

(端裏書)「茜部庄地頭出羽守年貢書状」
茜部庄御年貢事、去年分無懈怠、致其沙汰候了。兼又伊藤左衛門尉(=伊藤行村)不法之由候之間、改易代官、五郎左衛門尉秀氏と申候物に申付候。当年御年貢のためニ在国候。早相尋子細可申候。恐々謹言。
 文永七年
  後九月十日 前出羽守泰茂

(参考記事)

wallerstein.hatenadiary.org

同氏によれば、貞応2(1223)年8月2日、長井時広が東大寺別当・成宝と契約して茜部庄を地頭請所としており、この段階で同庄地頭職を領有していたことが明らかである*9から、それを引き継いだ「前出羽守泰茂」は『尊卑分脈』と照らし合わせてもその息子と認められる。このことは『尊卑分脈』での「出羽守 泰茂法印 静瑜―泰朝」が、実際の書状で「美濃国茜部庄地頭)長井出羽法印静瑜*10、「地頭静瑜法印・同子息」および「出羽孫三郎泰朝*11の呼称で書かれていることからも裏付けられ、正安2(1300)年5月23日付「六波羅下知状」にある「長井出羽太郎入道聖願*12、嘉元元(1303)年12月14日および正和4(1315)年3月1日付「関東御教書」の宛名「長井出羽左近大夫将監入道殿」*13も各々、出家後の長男・長井頼茂、次男・長井頼秀に比定される*14

*尚、時広―泰茂―静瑜と引き継がれた茜部庄地頭職は、元亨3(1323)年12月21日の長井静瑜の死後、遺跡を巡って対立した長井泰朝(出羽孫三郎)と長井桓瑜(出羽大夫阿闍梨、泰朝の兄弟か?)に二分され、やがて惣領・長井宗秀(道雄)の介入を受けて勝深律師長井貞重の子)、長井高冬(宗秀の孫)と相伝された*15

(参考)

kotobank.jp

 

従って、長井泰茂は文永6年までに出羽守任官を果たし、翌7年には辞任したことになる。前述の推定生年に従えば、この当時40代~50歳前後だったことになるが、国守に任官し、それを辞する年齢としては十分妥当である。この観点からも生まれた時期が裏付けられよう。 

また、小泉氏*16や小林定市*17がご紹介のように、『田総文書』には文永10(1273)年に泰茂備後国長和庄半分を和与し、次男・頼秀に西方地頭職、甥(泰重の子)田総重広に東方地頭職を相伝させたことを示す書状が収録されている。

【史料C】文永10(1273)年8月13日付「長井泰茂請文」(『田総文書』)

長和庄半分和与事、謹承候了、其間子細令申御使候了、定被申候歟、恐々謹言。

  文永十年

 八月十二日 泰茂(花押)

 

その後の活動は不詳だが、死没については

 ①宇部福原家系譜』*18:建治2(1276)年3月15日卒

 ②系図纂要:正安2(1300)年6月15日卒(享年69) 

の2説が伝わる*19

しかし、前述の正安2年5月23日付「六波羅下知状」に「聖願亡父出羽入道禅心」と書かれている*20ことから、出家後の法名が「禅心(ぜんしん)」であっただけでなく、この当時既に故人であったことも分かる。生前、羽仁刑部大夫入道道顕と相論を起こしていたというこの「長井出羽入道」は年代や冒頭で記した『福原家譜』との一致からし泰茂であろう*21(ちなみに『福原家譜』では没年月日不明とする)。また、永仁6(1298)年10月の段階で3男の出羽法印静瑜が茜部庄地頭職を継承済みであった*22ことから、この頃までには亡くなっていたものと推測される。

また②説で逆算すると1232年生まれとなるが、その3年後に「判官代」を名乗っていたとする【表A】との整合性が取れなくなる。よって、①説が正しい可能性が高いだろう。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.332「泰茂 長井」の項 より。

*2:判官代(ホウガンダイ)とは - コトバンク より。

*3:前注同箇所。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

*5:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.144~145

*6:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.85

*7:『鎌倉遺文』第14巻10699号。

*8:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.728。

*9:前注小泉氏論文 P.713・P.721註(17)・P.728。文永4(1267)年10月日付「茜部庄地頭代伊藤行村陳状案」に「去貞応年中、……被仰合于地頭長井入道殿云、……」とある(→『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.76)による。

*10:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.166

*11:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.162

*12:『大日本古文書』家わけ第十五 首藤山内家文書 五五五号(P.524)

*13:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之四 一三七〇・一三七一号(P.270)

*14:注8前掲小泉氏論文 P.750。

*15:注11同史料。

*16:注8前掲小泉氏論文 P.736。

*17:小林定市「古文書から見た長和庄の長井氏」(所収:備陽史探訪の会 編『中世を読む』第3・4号、1994年)P.28。

*18:『近世防長諸家系図綜覧』14「永代家老宇部福原家」所収。

*19:注8前掲小泉氏論文 P.751。

*20:『大日本古文書』家わけ第十五 首藤山内家文書 五五五号(P.525)

*21:注8前掲小泉氏論文 P.751。

*22:注10同史料。