Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長和泰継

長和 泰継(ながわ やすつぐ、生年不詳(1220年代?)~没年不詳) は、鎌倉時代前・中期の人物、御家人。長井時広の庶子長井泰継(ながい ー)とも。通称は五郎。

 

『尊卑分脈』『福原家譜』8巻では、時広の6男として書かれ「長和」・「五郎」の注記がある(長兄や次兄の例からすると、輩行名の通り5男であったとも考えられ、系図での兄弟順は入れ替わっている可能性もある)。諱(実名)について前者では「泰経」、後者では「泰継」とするが、兄弟の上山泰経と同名であったとは考えにくいので、泰継が正しいであろう(「経」と「継」の崩し字は類似しており、『尊卑分脈』の写本が複数伝わる際に誤記・誤写が生じたのであろう)庶子であったため、分家して長和氏を興したとみられる。

 

下記<参考記事>で紹介の通り、長兄・泰秀が1212年生まれと判明しているほか、次兄・泰重も1220年頃の生まれと推定されるので、その弟たちも1220年代の生まれであったと考えられる。そして、父・時広が亡くなる仁治2(1241)年5月28日*1までには生まれている筈であろうから、この間に生まれたことは確実である。その当時は北条が3代執権の座にあり(在職:1224~1242年)*2、「」の名は兄たちに同じくその偏諱を受けたものと判断される。

 

泰継については、『吾妻鏡』をはじめとする実際の史料で確認は出来ず、その活動内容や生涯は不明である。但し「長和」の苗字は、兄・長井泰茂が領した備後国長和庄*3に由来する可能性が高く、同国守護職にあった次兄・泰重に代わって泰茂と共に備後国に下向していたのかもしれない*4

 

<参考記事>

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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脚注