大岡時親
大岡 時親(おおおか ときちか、1160年頃?~没年未詳)は、平安時代末期の駿河国大岡牧(現在の静岡県沼津市)の豪族。牧宗親の子、北条時政の継室となった牧の方とは兄弟 とされ、牧時親(まき ー)とも呼ばれる。
まず、『明月記』や『吾妻鏡』での登場箇所は次の通りである*1。
●『吾妻鏡』建仁3(1203)年9月2日条:いわゆる「比企能員の乱」の終了後、時政の命により派遣された「大岡判官時親」が比企一族の死骸等を実検。
●『明月記』元久2(1205)年3月10日条:後鳥羽院の八幡御精進が行われ、院より「歌十五首」を進上することを命じられた者の中に「備前守藤時親」*2。「藤」の字から藤原姓であったことが分かる。
●『吾妻鏡』同年6月21日条:牧の方と時政が畠山重忠父子の誅殺を計画して子の義時、時房に諫められた際、牧の方の使者として「備前守時親」が義時邸を訪問。
●『吾妻鏡』同年8月5日条:「大岡備前守時親出家、是依遠州(=北条遠江守時政)被落飾事也、」*3。
そして、この大岡時親が牧宗親の息子であったことは次の史料によって分かる。
……時正〔ママ、時政〕ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウトゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ。其宗親、頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ(仕えて)、駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ(知/領(し)らせけり=治めた)。武者ニモアラズ、カゝル物ノ中ニカゝル果報ノ出クル(フ)シギノ事也。……
男子2名や娘を多くもうけたという、北条時政の若き妻は牧宗親の「ムスメ」であり、その「せうと」(=しょうと・兄人:女性から見て男の兄弟をさす)*5であった大岡時親が五位尉となったと書かれている。
この「ワカキ妻」=牧の方については、『吾妻鏡』により、寿永元(1182)年11月10日の段階で時政と結婚していたことが分かる*6。宇都宮泰綱の母となった娘が文治3(1187)年生まれ、息子・北条政範が同5(1189)年生まれであることなどを考慮すれば、1160年頃までに生まれていたと考えるのが妥当であろう。婚姻は寿永元年からさほど遡らない時期であったと思われ、先学に同じく1150年代後半~60年頃の生まれとすればその当時20代の「ワカキ妻」であったというのと辻褄が合う*7。
そして、その兄弟であったという時親もさほど年齢は離れていなかったと考えて良いのではないか。既にご指摘もあるように「時親」の「時」は北条時政の偏諱と考えられ、「牧武者所宗親」が偏諱を受けて改名したとする説もある*8が、1181年頃の時政と牧の方の婚姻をきっかけに、時政が元服する時親の加冠役(=烏帽子親)を務めた可能性も考えられるのではないか*9。牧の方がその頃20歳くらいであるという前述の想定が正しければ、時親がその弟であった場合ちょうど元服の適齢であったと推測できるからである。1181年当時、元服適齢の10代前半とすれば、1204年頃に備前守となった時30代半ば程度であったことになるが、国守任官年齢としては十分妥当だと思う。
細川重男氏の見解では、時政の長男・北条宗時(1180年戦死)の「宗」を牧宗親の偏諱と推測されており*10、文治5(1189)年11月2日に奥州藤原氏との戦いで源頼朝の不興を買って時政に預けられた「牧六郎政親」*11も時親の弟で、同じく時政の烏帽子子であったとみられる。
また時親自身も時政の義弟・烏帽子子であるだけでなく、その娘婿にもなっており、牧・北条両氏は婚姻や烏帽子親子の関係を重ねて連携を深めていったことが窺える。時親の備前守任官も、当時の執権(政所別当)であった時政の後押しがあって実現したものなのかもしれない。しかし前述の通り、その時政は畠山重忠の討伐や牧氏事件をきっかけに北条政子・義時らと対立して落飾(出家)し、伊豆へと追放され、時親も同時に出家して表舞台から遠ざかったのであった。
(参考ページ)
● 宝賀寿男:杉橋隆夫氏の論考 「牧の方の出身と政治的位置」を読む
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.194「時親 大岡」の項 より。
*2:明月記. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション。上横手雅敬「書評 佐藤進一『日本の中世国家』〔中世史研究者の立場から〕」P.178。
*4:宝賀寿男:杉橋隆夫氏の論考 「牧の方の出身と政治的位置」を読む。上総平氏 千葉常秀 #牧氏について。野口実「伊豆北条氏の周辺 ー時政を評価するための覚書ー」(所収:『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』第20号、2007年)P.77。愚管抄 第六巻。
*5:せうとの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典 より。
*6:『吾妻鏡』同日条に「北条殿室家牧御方、密々令申之給故」に頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸への襲撃事件が起こされたとある。
*7:上記参考ページ双方を参照のこと。
*8:前注に同じ。
*9:執権就任前の時政が烏帽子親を務めた例としては、『吾妻鏡』建久元(1190)年9月7日条に時政の御前で曾我時致が元服を遂げた記事が確認できる(→ 曾我時致 - Henkipedia 参照)。
*10:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。
*11:『吾妻鏡』同日条(→『大日本史料』4-2 P.833)参照。