Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大内宗重

大内 宗重(おおうち むねしげ、1250年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人

系図類によれば、結城氏第3代当主・結城広綱の子。結城氏家督を継いだ兄弟・時広の配分を受けて下野国大内荘に入部し、その荘名を苗字として「大内弥三郎」を称したと伝わる。

 

 

結城時広の庶兄

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こちら▲の記事に、多くの種類が伝わる結城氏の系図をご紹介しているが、『尊卑分脈』(同記事【図A】)などでは、広綱の跡を継いだ時広の兄として書かれている。まずはこれについて検証してみたい。

同記事に【図H】として紹介したものであるが、永仁2(1294)年成立とされる「結城系図」では、時広の子(のちの貞広)が「犬次郎丸」と幼名で記されるのに対し、宗重の子は「彦三郎 時重」と元服後の実名で記されている。これについて市村高男は、宗重が時広の庶兄であり、時重が従弟の犬次郎丸より年長であったからであると説かれた*1

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この見解については筆者も賛同である。広は文永4(1267)年以後の生まれで、「時」の字が執権・北条宗からの偏諱であることは先行研究で指摘されている通りであり、一方6代将軍・親王が同3(1266)年に解任されるまでに重はその偏諱を受けたはず(後述参照)だから、時広誕生の段階で宗重は既に元服を済ませていたことは確実である

それどころか、永仁2(1294)年までに宗重の子・重も元服を遂げたことになり、やはり弘安7(1284)年までに北条宗の1字を受けたとみられるので、叔父―甥の間柄ではあるが恐らく時広とほぼ同世代人であろう。1270年頃の生まれと推定される。

 

 

宗尊親王の烏帽子子

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この図は『続群書類従』所収の結城氏系図のうちの一種、上記記事では【図E】として紹介した系図の一部であるが、「宗尊親王、諱の字を賜う」との注記があり、重の「宗」字は鎌倉幕府第6代将軍・親王からの偏諱であるという*2。特に初名が伝わっていないことから、烏帽子親も宗尊親王であろう。以下この記載について、宗重の生年を推定しながら検証する。

 

宗重の父・広綱の没年および享年については諸説伝わるが、弘安元(1278)年*3に52歳(数え年)*4で亡くなったとするのが妥当なようで、逆算すると安貞元(1227)年生まれとなる*5系図の中には承久3(1221)年生まれと記載するものもあり*6、とりあえず1220年代の生まれであることは確かなのではないか。

従って、親子の年齢差を考えて、宗重の生年は早くとも1240年代後半と推定される。或いは広綱が1227年の生まれであれば、1250年頃としても良いだろう。前節で宗重の息子・時重の生年を1270年頃と推定したのと辻褄が合う。

 

従って、元服は通常10~15歳程度で行われたから、宗尊親王の将軍在任期間(建長4(1252)年~文永3(1266)年)内に行われたことは確実で、上図「宗尊親王賜諱字」の信憑性も証明できよう。同系図にも記されている通り、父・広綱が宗尊親王に近侍していた*7ことが契機になったと思われる。 

親王が烏帽子親として「宗」字を下賜した例としては、他に北条時が確認でき、弟の北条宗政や母方の従弟・赤橋義宗、更に他氏では時宗家督継承前に元服を済ませている京極宗綱二階堂行宗もその候補に挙がっている。

宗尊親王賜諱字」はこの系図独自の貴重な情報であるが、わざわざ書く以上信憑性を否定する必要は無いと思われる。すると、烏帽子親の面だけで判断すれば、宗重は執権の北条氏得宗家を加冠役にした一般御家人よりも、将軍の烏帽子子たる得宗や赤橋流北条氏と同格であったと言うことができる。

しかし結城氏でも嫡子に指名されたのは、北条宗の偏諱を受けた弟の広であり、実際得宗専制期において、赤橋流北条氏(義宗―久時―守時)の他に、一般御家人で7代・源惟康惟康親王以降の親王将軍から一字拝領した者は確認できず、将軍との烏帽子親子関係は家督継承において効力を持たなかったと言えよう。

一方で、『甲斐信濃源氏綱要』や『系図纂要』によれば、第8代執権の時が武田信の加冠を務めたといい、「」字が下げ渡されている。その他にも宗尊親王解任後に元服の適齢を迎えた安達河越千葉兄弟、長井など、同様の例とみられる例は少なくない。これらの者は皆、各家の嫡子またはそれに準ずる庶子(=準嫡子)であり、得宗家との烏帽子親子関係が家督継承の資格を持つ者の特権であったという紺戸淳氏の説は強ち間違ってもいないと思われる。この観点から、家督を継いだ京極宗綱・二階堂行宗の両名についても家督継承前の時宗から一字を拝領した可能性を考えて良いのではないかと思う。

 

 

結城系大内氏について

親鸞聖人正統伝」*8には、宗重が大内荘に入部する以前の嘉禄元(1225)年、親鸞に帰依した人物として「真岡城主大内国行」なる武士が確認できるという。荒川善夫は、兄時広〔ママ〕からの譲りばかりではなく、この大内氏との婚姻関係ないしは養子関係を媒介として、宗重の大内荘入部がなされた可能性を指摘している*9。 

結城系大内氏と思しき者の活動は史料上で少なからず散見される。荒川氏の研究に従って掲げると次の通りである*10

 

元弘元(1331)年の元弘の変(笠置山攻め)に際し、幕府軍の一員として「大内山城前司」 が従軍(太平記*11)。

大将軍 大仏陸奥守貞直 大仏遠江 普恩寺相摸守基時 塩田越前守 桜田参河守
赤橋尾張 江馬越前守 糸田左馬頭 印具兵庫助 佐介上総介
名越右馬助 金沢右馬助 遠江左近大夫将監治時 足利治部大輔高氏  
侍大将 長崎四郎左衛門尉        
三浦介入道 武田甲斐次郎左衛門尉 椎名孫八入道 結城上野入道 小山出羽入道
氏家美作守 佐竹上総入道 長沼四郎左衛門入道 土屋安芸権守 那須加賀権守
梶原上野太郎左衛門尉 岩城次郎入道 佐野安房弥太郎 木村次郎左衛門尉 相馬右衛門次郎
南部三郎次郎 毛利丹後前司 那波左近太夫将監 一宮善民部太夫 土肥佐渡前司
宇都宮安芸前司 宇都宮肥後権守 葛西三郎兵衛尉 寒河弥四郎 上野七郎三郎
大内山城前司 長井治部少輔 長井備前太郎 長井因幡民部大輔入道 筑後前司
下総入道 山城左衛門大夫 宇都宮美濃入道 岩崎弾正左衛門尉 高久孫三郎
高久彦三郎 伊達入道 田村刑部大輔入道 入江蒲原一族 横山猪俣両党

(表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借)

 

 小山下野守秀朝が下野守護であった建武元(1334)年、「大内山城入道」が守護使として東茂木保の相論に関与(『茂木文書』*12)。

延元2(1337)年6月25日、南朝方の白河結城宗広と行動を共にし、陸奥国白河荘にいたと思われる「大内三郎左衛門尉」が陸奥国司・北畠顕家から恩賞を約す旨を報ぜられる(『伊勢結城文書』「北畠顕家御教書写」*13

康永4(1345)年8月29日、将軍・足利尊氏天龍寺供養参詣に際し、「結城大内三郎」が直垂を着て供奉(『結城家文書』*14)。

文和4(1355)年正月十九日、「結城大内刑部大輔 重朝」が「結城中務大輔 直光」らと共に京都に出陣しようとする足利尊氏軍の「御馬廻り」を務める(『源威集』*15)。

康暦2(1380)年5月16日、小山義政の乱の緒戦となった宇都宮裳原(もばら)の合戦にて、"義政一族" であった「大内入道父子」が小山方について討死(『花営三代記』*16・『迎陽記』*17)。 

 

最初の2つに掲げた「大内山城前司」と「大内山城入道(殿)」は時期の近さと官途の一致からして、出家前と後の同一人物ではないかと思われる。一度山城守(国守)に任官し、元弘年間では既に辞していることが窺えるので、若くとも40代には達していたと思われ、宗重またはその子・時重の可能性があり得よう*18

また、結城大内重朝の名が現れているように、宗重―時重と続いた家系は「重」を通字としてそのまま存続したことが窺える。また弥三郎宗重と同じ「三郎」を称する者も見られ、荒川氏は「大内三郎左衛門尉」を大内氏庶子とされたが、この者は嫡流の当主であった可能性が高いのではないか。

また、それから僅か8年後の「結城大内三郎」はその名からし元服してさほど経っていない段階と思われ、三郎左衛門尉の嫡子として「三郎」の仮名を継承し、更に10年後に官途を持って史料に現れる重朝と同一人物の可能性もあり得よう。

 

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脚注

*1:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.74。

*2:荒川善夫「鎌倉期下総結城一族の所領考 結城郡寒河郡・網戸郷を中心としてー」(所収:同編著『下総結城氏』<シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻>、戎光祥出版、2012年)P.72。

*3:注1前掲市村氏論文 P.73。典拠は『結城御代記』。

*4:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図B】参照。

*5:結城広綱 - Wikipedia 参照。

*6:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図E】参照。

*7:広綱の注記の文中に「近侍宗尊久明両親王」 とある。但し広綱は弘安元年には没したとされ、「久明」(8代将軍) は「惟康(親王)」(7代将軍) の誤記であろう。

*8:真宗史料集成』(同朋舎)第七巻所収。

*9:注2同箇所。

*10:注2荒川氏論文 P.74~75 注(2)。

*11:『太平記』巻3「笠置軍事陶山小見山夜討事」

*12:詳しくは、小山秀朝 - Henkipedia【史料D】を参照のこと。

*13:市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 ―二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史―」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.24。

*14:白河市史 第五巻資料編2 古代・中世』P.273~278。『大日本史料』6-9 P.250276288

*15:『大日本史料』6-19 P.443。尚、同書では翌年にも「結城中務大輔、太内刑部太輔〔ママ〕」の名が見られる(同前 P.633)。

*16:【花営三代記】P.69

*17:迎陽記︵康暦元年∼応永八年︶翻刻 P.46。

*18:南北朝列伝 ー 大内山城前司 より。