Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

宇都宮高貞

宇都宮 高貞(うつのみや たかさだ、1305年頃?~1340年?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。父は宇都宮貞綱で、宇都宮公綱(初め高綱)の弟にあたる。

 

 

史料上における高貞

『尊卑分脈』宇都宮氏系図(以下『分脈』と略記)高貞の傍注に「兵庫助 弾正少弼 五郎 改公貞 又改綱世」とあり、のちに宇都宮公貞(きんさだ)、宇都宮綱世(つなよ)と改名したことが分かる。 

【史料A】『鎌倉年代記』裏書*1(または『北條九代記』*2)より一部抜粋

今年嘉暦二……六月、宇都宮五郎高貞小田尾張権守高知、為蝦夷追討使下向、……

今年嘉暦三、十月、奥州合戦事、以和談之儀、高貞高知等帰参、……

これが史料上での初見と思われるが、嘉暦2(1327)年6月までに元服し、鎌倉幕府滅亡前「高貞」を称していたことが窺える。小田高知(のちの治久)と共に安藤氏の乱鎮圧にあたったと伝えており、この時点では無官のため「五郎」とのみ称されていたことが分かるが、これは元服からさほど経っていなかったためであろう。

兄・高綱(公綱)が乾元元(1302)年生まれと伝わる*3ので、弟である高貞の生年はこれ以後のはずである(高貞を貞綱の長男=すなわち高綱の兄とする系図もあるが、この信憑性が低いことは後述参照)元服は通常10~15歳ごろに行われたので、仮に1303年生まれとしても、元服の年次は早くとも1312~1317年頃となり*4、これ以後であったと推定可能である。 

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先学で既にご指摘のように、兄・綱の名はこの当時の得宗・14代執権の北条(在職:1316~1326年)から偏諱を受けたものと考えられており、」の名も「貞」が父・貞綱の1字であるから同様に高時からの一字拝領であったとみなして良いだろう*5。 

 

その後「」に改名した時期は不明だが、鎌倉幕府滅亡の翌年、建武元(1334)年8月「(八番制)雑訴決断所結番交名」の一番に「宇津宮兵部少輔 公綱」とあり*6、この時までに兄・高綱が「綱」に改名したことが窺えるので、高貞(公貞)も同じ「」の字に変えていることからしてこれに連動したと考えて良いと思われる。

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『有造館結城古文書写』には、延元4/暦応2(1339)年4月12日、南朝方の春日中将顕国に攻められ、「兵庫助綱世子息金□□(欠字あり、幼名で金□丸か?)」が討ち取られたことを伝える書状が残っており、その直後にも「綱世妻舎弟御房丸」と書かれていて*7、当時の官途が「兵庫助正六位下相当)*8」であったこと、最終的に「綱世」に改名したことが確認できる。またこの段階で息子が幼いながらも戦闘に参加できるくらいの年齢であったことも分かるので、高貞(綱世)が1310年頃までに生まれていたことが裏付けられよう。

 

同時期の史料として、『梅松論』には菊地武敏らと戦った多々良浜の戦い(1336年)に際し、足利方として「京都より供奉の人々、大友、島津、千葉大隅守(=胤貞)宇都宮弾正少弼 三百余騎」が従軍したとあり*9、『観応二年日次記』(1351年)7月30日条にも「錦小路禅門(=足利直義*10が北国に下向した際の供奉人の中に「宇津宮弾正少弼」が含まれていて*11、『大日本史料』ではこれらを綱世に比定する。

前述史料との照合で兵庫助の前に「弾正少弼正五位下相当)*12だったことになる『梅松論』は元々軍記物ゆえ、のちの官途で記した可能性が考えられるが、『南方紀伝』に「二月……一品入道親房、遣勢、誅宇都宮綱世」とあり*13、暦応3/興国元(1340)年2月、南朝方の北畠親房が軍勢を派遣して綱世を誅殺したというので、『観応二年日次記』の「宇津宮弾正少弼」は綱世でない可能性が高い。

 

兄・公綱は一時期を除き、ほぼ一貫して南朝方であったのに対し、前述の通り、綱世父子は親房およびその幕僚であった春日顕国と戦って討たれており、北朝方であったことが窺える。箱根・竹ノ下の戦い(1336年)の後、一度は足利尊氏に降伏した公綱は、尊氏が京都で南朝方に敗れて一旦九州に落ち延びた際に南朝方に帰順したが、弟の綱世は兄と袂を分かち北朝方に残ったのであろう。

 

 

芳賀高貞との同一人物説について

ところで、宇都宮高貞については芳賀高貞と同一人物とする説がある。これは『下野国誌』10巻所収「芳賀系図(以下『国誌』と略記)の高貞の注記に「初名公貞、宇都宮貞綱長男*14、或いは『真岡市史 古代中世史料編』所収の「清原朝臣芳賀氏之系図(以下「清原芳賀系図」と略記)に「(朱書)「宇都宮貞綱三男」 本性院殿徹山道覚大居士(朱書)「永和貳年七月十四日」 伊賀守高貞*15とあることから唱えられたものと思われる。

 

芳賀高貞に関する史料としては、軍記物語にはなるが『太平記』巻34「畠山道誓上洛事」の文中に「延文四年(=1359年)十月八日、畠山入道々誓、武蔵の入間河を立て上洛するに、相順ふ人々には、……(中略)……宇都宮芳賀兵衛入道禅可(=芳賀高名)、子息伊賀守*16同巻39「芳賀兵衛入道軍事」にも「芳賀兵衛入道禅可……(中略)……嫡子伊賀守高貞、次男駿河(=芳賀高家ニ八百余騎ヲ差副テ、…*17とあるのが確認できる。

前節で紹介した史料と照らし合わせれば、兵庫助弾正少弼となった後で国守任官を果たしたという考えは十分可能であるが、名乗りに関して兵庫助時代「綱世」であったものが、伊賀守となってから「高貞」になっているのは『分脈』の記載と矛盾する。

しかも【史料A】より元服から間もない頃「高貞」と名乗っていたことは明らかであるから、『分脈』の記載通り「高貞→公貞→綱世」(或いは『国誌』に従えば「公貞→高貞→綱世」)と改名していった後、元の実名に戻すという理解は、事実上高時からの偏諱「高」を "復活" させることにもなり、前述の『南方紀伝』とも矛盾するので、あり得ないと言って良い。

『国誌』や「清原芳賀系図」ですら、宇都宮貞綱の「長男」・「三男」と意見が分かれており、特に後者では朱書(追筆)で書かれているから、後世の研究において、同じ宇都宮氏一族・実名の上に活動時期が重なっていたことから誤って同一人物とみなされたのであろう*18。よって芳賀高貞に関しては『太平記』の記載通り、芳賀高名法名:禅可、父の芳賀高久が宇都宮氏から養子入りしたという)の嫡子(実子)とみなされる

それぞれの名乗りに関しては、宇都宮高貞(公貞・綱世)が父・貞綱の「貞」と得宗北条高時からの「高」により構成されたもの、芳賀高貞の「高」は単に芳賀氏の通字*19を用いたものと考えられる*20

 

(参考ページ)

 芳賀高貞(はが たかさだ)とは - コトバンク

 

脚注

*1:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。年代記嘉暦2年年代記嘉暦3年

*2:『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)での手法に倣った。

*5:武家家伝_芳賀氏 より。

*6:『大日本史料』6-1 P.753『高根沢町史 通史編Ⅰ』P.403

*7:『大日本史料』6-5 P.480

*8:兵庫の助(ひょうごのすけ)とは - コトバンク兵庫寮 #職員 より。

*9:『大日本史料』6-3 P.141

*10:錦小路禅門(にしきこうじのぜんもん)とは - コトバンク より。

*11:『大日本史料』6-15 P.157

*12:弾正少弼とは 一般のブログ記事を集めました - はてな より。

*13:『大日本史料』6-6 P.107日本歴史文庫. 〔1〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*14:注5同箇所 および 『大日本史料』6-25 P.180

*15:『大日本史料』6-48 P.304

*16:『大日本史料』6-22 P.737

*17:『大日本史料』6-25 P.182「太平記」芳賀兵衛入道軍事(その2) : Santa Lab's Blog太平記巻第三十九(その一)

*18:注5同箇所。

*19:芳賀氏は、清原業恒の子・吉澄(一説に高澄)の息子である高重が寛和元(985)年、花山天皇の勅勘を蒙って流罪となり、その地である下野国芳賀郡大内荘にちなんで苗字としたのに始まると伝えられ、以来「高」が代々の通字となっている(→ 芳賀氏 - Wikipedia芳賀氏(はがうじ)とは - コトバンク武家家伝_芳賀氏を参照)。北条高時在世時には同じく北条氏一門の伊具時高が「斎時」に改名するといった事例はあった(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その53-伊具斎時 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)が、恐らくはこれは自主的なもので、芳賀氏(高久―高名―高貞)に対し「高」字を避けることを強制しなかったものとみられる。

*20:注5同箇所。