宇都宮貞綱
宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな、1266年?~1316年)は、鎌倉時代中・後期の武将、御家人。宇都宮氏第8代当主。父は宇都宮景綱、母は安達義景の娘。
はじめに ー 北条貞時からの一字拝領
先学で既にご指摘のように、「貞綱」の名は得宗・9代執権の北条貞時から偏諱を受けたものとされる*1。「綱」は宇都宮氏の通字であり、それまで祖父・宇都宮泰綱、伯父・宇都宮経綱*2、ひいては貞綱の子・高綱(のちの公綱)*3が北条泰時、経時、高時の偏諱を受けたとみられること、貞時存命の間に「貞」の字が許され、例えば嘉元の乱に際しても貞時の命に従う等の姿勢が見られることから疑いは無いと思う。
従って、貞綱の元服は貞時執権期間(在職:1284~1301年)*4に行われたと考えるのが良いと思われるが、一方で辞書等を見ると貞綱は弘安4(1281)年の弘安の役に参戦したというのである。その一例として岡田清一氏*5によると、
弘安4年(1281年)の元寇の弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽、山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した。その功績により戦後、引付衆に任じられた。
というが、通説によれば当時16歳という元服からさほど経たない青年だったようである。
年齢的には参戦するにあたって差し支えないと思うが、すると時宗が存命にもかかわらず、その嫡男である貞時から1字を拝領したことになる。
しかし『関東評定衆伝』を見る限り、この頃の「引付衆」のメンバーの中に宇都宮貞綱らしき人物は載せられておらず(評定衆に父の「宇都宮前下野守藤原景綱」が含まれている)*6、更に "出陣したが戦闘には間に合わなかった" とするものもあり*7、もしそうであれば幕府に従順な姿勢を見せただけで(遅刻したことが無関係で)功績を称えられたことになるが、その理由も不可解である。そもそも山陽・山陰地方の6万の軍勢を率いる総大将に、戦場での経験が浅いであろう16歳の若者を起用するというのはあまりにも現実的な想定とは言えないのではないか。
以上より、貞綱の弘安の役参戦、および生年について疑問に思うところがあったので、以下本項にて再考察を試みたいと思う。
貞綱の弘安の役参戦について
ところで、貞綱が弘安の役に参加したとする根拠は何であろうか。先学で具体的に言及されていないと思うが、その史料と思われるものを、管見に入った範囲で紹介したいと思う。
【史料A】「深堀系図証文記録」より
弘安四年五月蒙古襲来于筑之博多、賊船無数、其兵十余万侵九州、探題秀堅・大友豊後守時重・太宰小弐父子三人・菊池四郎武通・秋月九郎・原田・松浦・宗像大宮司・三原・山鹿・草野・島津其外御家人三十二人、防戦于豊筑之際、厚東・大内介来加、于豊前賊兵挑戦不利而退、探題被疵、大友戦死、従六波羅宇都宮貞綱為大将其勢六万余騎、先陣已着于長府、蒙古大将出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺帰者幾希、神国霊験異国巻舌、此時深堀左衛門尉時光・深堀弥五郎時仲有戦功
(*変体仮名については http://www.book-seishindo.jp/kana/、『覚えておきたい 古文書くずし字200選』(柏書房)組見本 を参考とした。)
仆檣架虜艦,登之擒虜將王冠者安達次郞、大友藏人踵進。虜終不能上岸,収據鷹島。時宗遣宇都宮貞綱,將兵援實政。未到閏月,大風雷,虜艦敗壞。少貳景資等因奮撃鏖虜兵。伏尸蔽海。海可歩而行。虜兵十萬,脱歸者纔三人。元不復窺我邊,時宗之力也。
読み下し*9:(弘安)四年七月、水城に抵る。……(略)…帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、 虜の将の王冠せる者を擒にす。安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。 虜、終に岸に上る能はず。収めて鷹島に拠る。時宗、 宇都宮貞綱を遣して、兵に将として(金沢)実政を援けしむ。 未だ到らず。閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。 少弐景資ら、因って奮撃し、虜兵を鏖にす。
【史料D】「江木次郎右衛門家譜」(近藤芳樹「防長国郡志邊要志」巻四*10)より
弘安四年大元國之兵数百之船に乗て日本を撃んとす、太宰府に着す、九州諸将戦負大内介弘定*1 厚東彌太郎武仲*2を先鋒とし陶八郎弘貞右田八郎太郎重俊を卒て赤間を渡り小倉に陣す。菊池肥後守武運〔武通カ?〕大友豊後守太宰大弐と牒し合て戦ふ。弘定大に利を得給ひ、異賊早速征伐之旨江木六郎弘房*3を以て京都六波羅へ注進あり、六波羅の朝綱異賊と九州の諸将と戦て、無利由を聞て下向し給へり。備後國鞆にて行逢朝綱江木に對面褒美不斜弘房防州に帰候よし申傳候事。
【史料B】以下3点の史料については、『備中府志』(『古戦場備中府志』とも)が江戸時代中期の享保20(1735)年の成立*11、『日本外史』や近藤による「防長国郡志邊要志」は1800年代の成立*12であり、いずれも鎌倉時代当時の一等史料とは言えない。よって、これらは江戸時代当時における研究成果と捉えるべきである。
対して【史料A】の「深堀系図証文記録」は深堀氏が建長7(1255)年に肥前国彼杵郡地頭職を与えられて以来の古文書を保存・集成したもの*13である。よって史料的な価値は高く、他の史料3点もこれを直接、或いは間接的に基にしたのではないかと思うが、だからといってそれに誤記が無いとは言い切れない。恐らく上記史料での「貞綱」は父「景綱」の誤りではないかと思う。或いは【史料D】の「朝綱(ともつな)」が正しく、貞綱の初名を伝えるものかもしれない。
貞綱の生年について
そもそも前節での弘安の役参戦説が成り立ってしまったのは、貞綱の生年が関係していると思われる。
細川重男氏の研究*14によると、正和5(1316)年7月25日に55歳で亡くなったといい(『佐野本 宇都宮系図』)、逆算すると弘長2(1262)年生まれとなるから、『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条の新日吉社五月会流鏑馬5番にある「下総三郎左衛門尉藤原貞綱」についても「下総」が「下野」の誤記として当時30歳の宇都宮貞綱であるという。ちなみに、1266年生年説は弘安の役当時16歳であったというところから逆算した異説と思われ、1262年生まれとしても21歳となるから、一応戦闘に参加出来ない年齢でもない。このあたり矛盾が生じていないので、特に異論が出ていなかったのだと思う。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
しかし、こちら▲の記事で指摘した通り、『実躬卿記』の「下総三郎左衛門尉藤原貞綱」は『尊卑分脈』により二階堂頼綱(下総守)の子・貞綱(三郎左衛門尉、本名師綱)にこそ相応しいと思う。よって、宇都宮貞綱が正応4年当時(相応の年齢に達して)左衛門尉であったとする根拠は無くなる。
あわせて宇都宮氏歴代当主の官途に着目してみたい。
宇都宮泰綱*15
建仁3(1203)年生まれ(1)
~嘉禄2(1226)年:修理亮*16(24)
暦仁元(1238)年:下野守・叙爵(36)
宇都宮景綱*17
嘉禎元(1235)年生まれ(1)
文応元(1260)年頃:左衛門尉*18(26)
~文永6(1269)年:下野守(35)
文永9(1272)年~:前下野守(38)
弘長2(1262)年生まれ(1)
正安2(1300)年「宇津宮三河守貞綱」(39)
嘉元2(1305)年「宇都宮下野守貞綱」(44)*20
宇都宮高綱(公綱)(1302-1356)*21
建武元(1334)年8月:「宇津宮兵部少輔 公綱」*22(33)
建武2(1335)年正月28日:「宇津宮左馬権頭公綱」*24(34)
※管見の限り「治部大輔」とするのは軍記物語の『太平記』のみであり(他にも複数箇所に「宇都宮治部大輔」の名で登場)、史実として扱うかどうかについては慎重になるべきである。
(任官時期不詳):備前権守 *従五位下相当、長官級(国守)、権官
(任官時期不詳、最終官途):左少将(=左近衛権少将)*27(享年55)
宇都宮氏綱(1326-1370)*29:
足利尊氏の烏帽子子であろう。
観応2(1351)年4月13日付の書状に「宇都宮孫三郎氏綱 修理亮 所望の事」とあり*30、東福寺造営の功を以て、尊氏の弟・足利直義が氏綱を修理亮に吹挙しているが、翌正平7(1352)年閏2月16日付「前遠江守(=南宗継)執達状」の宛名に「宇都宮下野守殿」とあるのが確認でき*31、どうやら下野守への任官が認められたようである*32。観応2/正平6年当時26歳での任官となる。
その裏付けとして、『師守記』貞治6(1367)年7月5日条に掲載の宣旨によれば、「藤原朝臣義政(=小山義政)」が「藤氏綱(=藤原氏綱)替」えとして下野守に任ぜられたといい*33、これ以前の下野守が宇都宮氏綱であったことを示している。
宇都宮基綱(1350-1380)*34
永和3(1377=天授3)年11月17日に2代鎌倉公方・足利氏満(基氏の子)が「小山下野守(=義政)」・「宇都宮下野守(=基綱)」両名にそれぞれ、鎌倉円覚寺造営を理由として従来守護にしか許されていなかった領内での棟別銭を命ずる書状を発給しており*35、先行研究では江田郁夫氏が宇都宮基綱に小山義政と同時期に下野守を名乗ることなどを認めたことで小山氏・宇都宮両氏の対立を助長した可能性をする*36など、のちの裳原(茂原)の戦い(1380年、基綱が敗死)に繋がった史料としても扱われている*37。
前述の通りこの当時氏綱は亡くなっているので、「宇都宮下野守」は息子の基綱に比定され、当時28歳で既に任官が認められていたことになる。
以後も宇都宮氏歴代当主のほとんどが下野守に任官している*38が、その年齢に着目すると35~36歳(鎌倉時代)→ 27歳程度(南北朝時代)と次第に低年齢化していることが窺える。
ところが貞綱の場合、上の表で見ると下野守より前、三河守在任が初めて確認できる年齢ですら39歳、と遅いように思える。三河守・下野守はともに従五位下相当の上国守である*39が、その任官が祖父や父に比べ遅れる理由は何なのであろう。
そして、何よりも妙なのが、安達義景の娘婿であった父・景綱が、義兄弟(妻の兄弟)安達泰盛一派が討たれた霜月騒動の際に失脚しているのに対し、泰盛の甥にあたる貞綱については特にそういった事実が伝わっていないことである。霜月騒動が任官の遅れに影響したのだとすれば納得がいくが、これを断定し得る史料は確認できない。
よって、少なくとも弘長2年生年説については、元々一等史料ではない系図(『佐野本宇都宮系図』)に基づく情報であることからして、直ちに信ずるべきではないと思われる。数年遅らせただけになるが1266年生まれとするのがまだ妥当で、或いは1270年代の生まれとするのが良いのかもしれない。この辺りについては、後考を俟ちたいところである。
(参考ページ)
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪
脚注
*1:江田郁夫 編著『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年)P.9。
*2:宇都宮経綱 - Henkipedia 参照。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*5:安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)P.81 「宇都宮貞綱」の項(執筆:岡田清一)。
*6:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*7:宇都宮貞綱とは - はてなキーワード より。
*9:『日本外史』(著:頼山陽/訳:頼成一・頼惟勤、岩波書店)より。
*10:防長史談会『防長叢書』(1934年)所収。
*11:新日本古典籍総合データベース。CiNii 論文 - 岡山県新見市の金売吉次伝説。
*12:日本外史 - Wikipedia、近藤芳樹(こんどう よしき)とは - コトバンク より。
*13:収蔵品紹介 公益財団法人鍋島報效会 徴古館、長崎市│深堀家系図・深堀系図証文記。
*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№104-宇都宮泰綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その105-宇都宮景綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*18:『吾妻鏡』での表記による。詳しくは 宇都宮経綱 - Henkipedia【表1】を参照のこと。
*19:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№106-宇都宮貞綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*20:名越貞宗 - Henkipedia【史料A】・【史料B】 参照。嘉元の乱での討手方としての登場。
*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№107-宇都宮公綱 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*23:兵部省 - Wikipedia より。
*27:『大日本史料』6-20 P.883、同6-5 P.482。
*28:左近衛少将(サコンエノショウショウ)とは - コトバンク より。
*29:宇都宮氏綱(うつのみや うじつな)とは - コトバンク より。
*31:『大日本史料』6-16 P.46。また、同年正月の着到状にも「宇都宮下□守□綱」とあり、『大日本史料』6-15 P.596 では(下野守)貞綱とするが、これも正しくは氏綱であろう。すなわち、前年のうちに下野守に任じられた可能性が高いと思われる。
*32:『尊卑分脈』氏綱の注記には「下野守」とあるのみで修理亮に任官した経歴は確認できない。高祖父・泰綱にゆかりの「修理亮」を望んだ氏綱の意に(良い意味で)反し、泰綱・景綱・貞綱が就任してきた「下野守」への任官を認めたようである。
*34:『諸家系図纂』所収「宇都宮系図」(→『編年史料』後亀山天皇紀・天授6年4~5月 P.63)基綱の注記に康暦2年に小山義政と戦って戦死した時31歳との記載がある。
*35:『編年史料』後亀山天皇紀・天授3年9~11月 P.38。
*36:大塚秀哉「小山義政の乱に関する一考察」(所収:『大正大学大学院研究論集』41号)P.75。典拠は江田郁夫「小山義政の乱をめぐる諸問題」(所収:『室町幕府東国支配の研究』、高志書院、2008年/初出:1990年)。
*37:宇都宮基綱 - Wikipedia、小山氏の乱 - Wikipedia などを参照のこと。