Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

島津貞久

島津 貞久(しまづ さだひさ、1269年~1363年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人島津忠宗の嫡男で、島津氏第5代当主。薩摩・大隅・日向の守護大名

通称は三郎左衛門尉、上総介、上総入道など。法名道鑑(どうかん、表記は道鑒とも*1)。

 

 

生没年と烏帽子親について

『島津正統系図』・『嶋津家譜』・『島津国史』などによると、島津貞久貞治2(1363)年7月3日に95歳(数え年、以下同様)で逝去したと伝えられ*2、享年(没年齢)の記載は無いものの『島津家過去帳』でも同日に亡くなった旨の記述がある*3ほか、最後に後述するが、同年4月に子女たちに向けて書いた譲状が残っていて生存が確認できる。当時にしてはあまりにも長寿ゆえか、享年については本郷和人が異説があると紹介されている*4が、『嶋津家譜』では文永6(1269)年4月8日に生まれたとも明記しており、没年齢からの逆算との整合性にも問題はないので、一応は参考にすべき情報であろう。

ここで「」の実名に着目すると、「久」は島津氏祖・島津忠久に因むもので、祖父・久経(初め久時)も使用していた字である。結果的にではあるが「忠久―忠時―久時―忠宗」と、家督継承者が「久」・「忠」を交互に使う形となったので、忠宗の嫡子は「久」を使うように定められていたのであろう。

その一方で、わざわざ上(1文字目)に用いられている「」の字が烏帽子親からの一字拝領と推測されるが、これは得宗・第9代執権の北条偏諱を受けたものと思われる。

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前述の生年に従うと、貞時が先代・北条時宗の死に伴って跡を継いだ弘安7(1284)年*5当時、貞久は16歳。元服の年齢としてはやや遅めだが、家格の高い足利氏でも足利高氏(のちの尊氏)の15歳といった例がある*6ので、全くあり得ないことでもない。繰り返すが貞治2年までの生存は確認できるため、没年齢の観点からして生年が1269年より遡ることは考えにくく、執権となったばかりの時から「」字を拝領したことは確実と言って良いだろう

 

 

鎌倉時代の史料における貞久

「嘉元二年参上、同三年三廿九御進物請取」の端見返書がある、3月29日付で得宗北条貞時が花押を据えて発給した書状の宛名「嶋津下野三郎左衛門尉殿 御返事」について、『大日本古文書』などでは父・島津忠宗とする*7が、同年(1305年)8月7日付「関東下知状案」に「嶋津下野前司法師 法名道義」とあり*8、忠宗が既に出家していたことが確認できるので、三郎左衛門尉はその息子・貞久に比定すべきであろう。通称名は父・忠宗が下野守、自身の仮名(輩行名)が「三郎」で、左衛門尉に任官していたことを表すものである。すなわち、これが史料上における初見と思われ、貞時との関係性が窺える。

 

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島津氏のこれまでの例だと、こちら▲の記事で紹介の通り、曽祖父(忠久の子)島津忠時(初名:忠義)が20代半ば程度で左衛門尉に任官しており、他家の例を見てもその任官年齢は早くとも元服後の10代後半、一般的にも20~30代が多かったので、貞久は遅くとも1280年頃には生まれていたと推測可能で、この観点からも貞時執権期間の元服が裏付けられよう。前述の生年に基づけば恐らく1290年代半ばには左衛門尉になっていたものと推測できよう。

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文保2(1318)年3月15日付の沙弥道義(=忠宗)の譲状(『島津家文書』)に「ちやくし(=嫡子)三郎左衛門尉貞久」とあり*9、元亨2(1322)年11月25日付で修理亮(=鎮西探題・赤橋英時)が発給した「鎮西問状御教書」(『島津家文書』)の宛名「下野三郎左衛門尉殿*10、翌3(1323)年11月日付「国分友貞申状」(『薩摩国分寺文書』)の文中「島津下野三郎左衛門尉貞久*11は、いずれも島津貞久に同定される。

 

その後、嘉暦4(1329)年3月日付「関東下知状写」(『信濃矢島文書』)に初めて「島津上総入道*12と現れ、正慶元(1332)年12月1日付「将軍家守邦親王政所下文」(『島津家文書』)に「嶋津上総介貞久法師 法名道鑑*13、元弘3(1333)年7月日付「薩摩山田忠能等申状案」(『薩摩山田文書』)にも「島津上総前司貞久法師 法名道鑑*14とあって、これらの史料から貞久が出家前「上総介」となって退任していたこと、嘉暦4年までに出家して法名が「道鑑」であったことが分かる。

『薩藩旧記』和泉忠氏譜には「元亨五年乙丑 前年十二月改元 正中、是歳二年也、閏正月二十二日、道鑒狩巡封 、……」とあり*15、前述の「国分友貞申状」以後、恐らくは元亨4(1324=正中元)年中に出家を済ませていた可能性が高い。

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同じ頃、正中3(1326=嘉暦元)年3月の得宗・第14代執権の北条高時(貞時の子)の剃髪に追随したのか、同じく「」字を拝領した少弐筑後入道妙恵)大友(近江入道具簡)も出家しており、鎌倉幕府滅亡時には貞久(道鑑)と共に鎮西探題の英時を攻め滅ぼしている*16

その後の道鑑は、南北朝時代を通じ一貫して尊に従っており、4男・島津の名もその偏諱を受けたものと推測される。再び『薩藩旧記』を見ると、貞治2年卯月(4月)10日付で「道鑒」の署名を据えて師久・氏久らに出した譲状が数点収録されていて*17、この時までの生存が確認できると共に、冒頭で示した同年7月3日での死去を裏付けている。

 

(参考ページ)

 島津貞久 - Wikipedia

 島津貞久(しまづさだひさ)とは - コトバンク

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.94(一四八号)や、亡くなる直前の譲状など、貞久本人の署名の場合。

*2:『大日本史料』6-25 P.131~の各史料を参照のこと。

*3:前注同箇所。

*4:『朝日日本歴史人物事典』島津貞久の項(コトバンク)より。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:足利尊氏 - Henkipedia 脚注1参照。典拠は『続群書類従』所収「足利系図」。

*7:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三八号)『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年3月 P.60

*8:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.261(二九八号)

*9:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三九号)。『鎌倉遺文』第34巻26592号。

*10:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.516(五一四号)。『鎌倉遺文』第36巻28244号。

*11:『鎌倉遺文』第37巻28604号。

*12:『鎌倉遺文』第39巻30552号。

*13:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.28(四一号)。『鎌倉遺文』第41巻31907号。

*14:『大日本史料』6-1 P.9。『鎌倉遺文』第41巻32433号。

*15:『史料稿本』後醍醐天皇紀・正中2年1~閏1月 P.64。元亨から正中への改元が1324年12月であることについては、元亨 - Wikipedia および 正中 (元号) - Wikipedia を参照のこと。

*16:『大日本史料』6-1 P.7~の各史料を参照のこと。

*17:『大日本史料』6-25 P.49~53