Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

島津忠宗

島津 忠宗(しまづ ただむね、1251年~1325年)は、鎌倉時代中期から末期にかけての武将、御家人。島津氏第4代当主。父は島津久経、母は相馬胤綱の三女・谷殿*1。通称は三郎、左衛門尉、下野守。法名道義(どうぎ)。初名は島津宗忠(むねただ)か。 

 

 

系譜や法名などについて

まずは、島津忠宗に関する基本的な情報が分かる史料を数点紹介したいと思う。

【史料1】正応5年4月12日付「関東下知状」(『島津家文書』)*2より一部抜粋

嶋津大隅前司忠時法師 法名道佛 女子尼忍覚 代入蓮 与 下野彦三郎忠長 代了意 相論信濃国大田庄神代郷内腰中村田在家事、

……道佛文永二年六月二日、雖譲与于忠長亡父道忍、…………道忍嫡子忠宗 忠長舎兄 …………久時 仁 道忍俗名、…………(以下略)

正應五年四月十二日

  陸奥守平朝臣(花押)連署・大仏宣時

  相模守平朝臣(花押)*執権・北条貞時

この書状から系図を作成すると次のようになる。

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これは、鎌倉時代に書かれたとみられる信濃太田庄相伝系図*3の内容にも合致し、系譜について史料で裏付けることが出来た。島津忠宗は道忍(俗名:久時)の嫡子で、忠長の舎兄であった。

系図には忠宗の注記に「法名道義」とあるが、元徳元(1329)年10月5日付で「修理亮平朝臣」=第4代鎮西探題北条(赤橋)英時が発給した「鎮西下知状」*4の文中に、

【史料2】

(前略)……薩摩国……当国守護人大隅守忠時法師 法名道佛 状者、…………正応二年七月十五日、永仁二年七月卅日、同四年八月卅日、同五年七月五日、同年六月卅日、守護人下野前司入道ゝ義 于時忠宗、今者死去、状者、……(以下略)

とあるによって確認ができる。また、この書状からは次のことが読み取れる。 

 正応永仁年間当時「忠宗」と称していた道義薩摩国守護人として書状を発給していたこと。

 入道(出家)する前の最終官途が「下野前司(=前下野守)」であったこと。

 「今者(今は)死去」とあり、1329年当時既に亡くなっていたこと。

 

これらの情報は、次節で紹介する各関連史料との整合性の点で矛盾しない。

また、忠宗=道義であったことは、延文4(1359)年卯月(4月)五日付の「道鑒(=島津貞久)書状」の冒頭に貞久自らが「祖父道佛〔ママ〕亡父道儀〔ママ〕代々任置文之旨、……*5と書いていることからも裏付けられよう(貞久が忠宗の嫡男で、道鑑がその法名であることは下記記事参照)

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

 

関係史料の紹介

次に、本節では忠宗に関する史料(書状群)を以下に列挙する(特に記載の無いものは『島津家文書』所収)。特に通称や官途の変化に着目していただければと思う。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

【史料3】弘安4(1281)年4月16日付「島津久経自筆譲状」*6:文中に登場する息子たちの仮名「三郎」・「又三郎」のうち、前者「三郎」が嫡男・忠宗とみられ、史料上での初見であると共に、この時までに元服を済ませていたことが窺える。

 

 ★この間に左衛門尉任官か。

 

【史料4】弘安7(1284)年後4月21日付「異国警固番役覆勘状」(『比志島文書』)*7:発給者「宗忠」の署名と花押

【史料5】弘安8(1285)年5月1日付「島津忠宗覆勘状」(『比志島文書』):発給者「」の署名と花押

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*この二つの花押は一致していると言え、「宗忠」と「忠宗」は同一人物と考えて良いのだろう。「宗忠」については単なる誤記の可能性が考えられなくもないが、本人が署名の際に名前を間違えるとは考えにくく、恐らく初め、得宗北条時宗が弘安7年4月に亡くなるまでは、その偏諱「宗」を上(1文字目)にしていたのかもしれない。

 

【史料6】弘安9(1286)年12月30日付「関東御教書案」:宛名「嶋津三郎左衛門尉*8

(● 正応5(1292)年4月12日付「関東下知状」:「忠宗」 ※前述【史料1】参照。)

【史料7】正応6(1293=永仁元)年2月7日付「関東御教書」:宛名「下野三郎左衛門尉殿*9

【史料8】正応6年3月21日付「関東御教書」:宛名「嶋津下野三郎左衛門尉殿*10

【史料9】正応6年4月5日付「関東御教書」:宛名「下野三郎左衛門尉殿*11

 

 ★この間に下野守任官か。

 

【史料10】永仁5(1297)年8月15日付「島津忠宗書状」:発給者「忠宗」の署名と花押*12

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【史料11】永仁6(1298)年4月6日付「北条実政書状」*13:宛名「下野守殿」。「前上総介」=初代鎮西探題北条(金沢)実政が「島津大隅前司入道道仏遺領」を知行する旨を伝達。

*この書状の文中にも「惣領下野前司入道道忍」とある通り父・久経は下野守を辞して出家済みで、かつ既に故人であったことは冒頭の【史料A】に「亡父道忍」と書かれていることから明らかである。後述【史料13】で下野守=忠宗であることが裏付けられる。

【史料12】永仁6年7月10日付「島津忠宗異国警固番役覆勘状」:発給者「忠宗」の署名と花押*14

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【史料13】永仁6年10月1日付「島津忠宗神馬送文案」(『豊前益永家文書』):発給者「下野守忠宗*15

 

 ★この間に下野守を辞す。

 

【史料14】正安2(1300)年7月13日付「関東御教書(『薩摩旧記』所収『国分寺文書』):宛名「島津下野前司殿*16

【史料15】正安3(1301)年正月10日付「島津忠宗書下案」(同前『国分寺文書』):発給者「前下野守*17

【史料16】正安3年8月23日付「鎮西御教書案」(同前『国分寺文書』):宛名「下野前司殿*18

【史料17】正安3年8月25日付「島津忠宗施行状」(同前『国分寺文書』):発給者「前下野守*19

 

 ★この間に出家。

*正安3年8月22日には得宗北条貞時が9代執権を辞して剃髪、9月には鎮西探題の実政も出家しており、忠宗もいずれかに追随した可能性が高いと思われる。

 

【史料18】嘉元3(1305)年8月7日付「関東下知状案」:「嶋津下野前司法師 法名道義*20

【史料19】嘉元3年後12月15日付「島津道義(忠宗)書状」(『薩摩旧記』所収『冠嶽文書』):発給者「道義*21

*前掲【史料2】と照合すれば、忠宗が嘉元3年の段階で既に出家していたことが確実と認められる。よって、「嘉元二年参上、同三年三廿九御進物請取」の端見返書があって同年の発給とみられる、3月29日付「北条貞時書状」の宛名「嶋津下野三郎左衛門尉殿」について、『大日本古文書』などでは忠宗とする*22が、正しくは息子の貞久と判断できる。

 

【史料20】延慶2(1309)年2月10日付「関東御教書:宛名「嶋津下野前司入道殿*23

 

【史料21】文保元(1317)年12月21日付「将軍家政所下文案」:文中冒頭に「嶋津下野前司入道ゝ義*24

【史料22】文保2(1318)年3月15日付「沙弥道義(忠宗)譲状」*25:「沙弥道義」、署名と花押(下図)を据えて「ちやくし(=嫡子)三郎左衛門尉貞久」や「女子大むすめ」に対する譲状を発給。

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【史料23】元亨元(1321)年9月6日付「島津道義(忠宗)譲状」:発給者「道義」の署名と花押*26

【史料24】元亨元年10月27日付「島津道義(忠宗)譲状」:発給者「とうき(=道義)」の署名と花押*27

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生没年と烏帽子親について

『島津国史』・『嶋津家譜』の記載によれば、島津忠宗正中2(1325)年11月12日に享年75(数え年、以下同様)で逝去したといい*28、逆算すると『嶋津家譜』や『島津系図大略』でも明記されている通り、建長3(1251)年生まれ(誕生月日不詳とする)*29となる。

【史料2】により1329年の段階で故人であったことは前述した通りであり、【史料】22~24に挙げた通り、文保2年や元亨元年には譲状を出して家督や所領の移行・譲渡を行っている様子が窺えるので、正中2年死去説は十分信ずるに値すると思う。

 

そして、建長3年生まれとして前節の各史料を振り返ってみると、30歳程度で左衛門尉に、40代前半で下野守に任官したことになる。 

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『島津国史』などの記載を信ずるならば、祖父・忠時(初名:忠義)が20代半ば程度で左衛門尉に任官し、30代半ば~42歳の間で大隅守に任ぜられてこれを辞している。

同様であれば、嫡男・貞久も37~55歳の間左衛門尉に在任で、50代後半で上総介に昇ったことになる。

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任官年齢を見ると当主ごとに異なってはいるが、昇進のタイミングが大幅に違っているわけでもなく、忠宗の建長3年生まれ説は十分的を射たものと言って良いだろう。

ここで「」の名乗りに着目すると、「忠」は島津忠久・忠時父子で継承された字であるから、「」が烏帽子親からの一字拝領と推測される。というのも、この字は将軍・親王、或いは宗尊の烏帽子子で執権となった北条時偏諱を許されたものと考えられるからである。

 

1269年生まれの久は、1284年に得宗となった北条時の加冠により元服したと考えられるので、他家に比べると若干遅いが16歳での元服であった可能性が高い。『吾妻鏡』を見ると、祖父・忠時の初見時20歳、父・久経(初名:久時)のそれが、修理亮任官済みの状態で28歳であるから、やはり元服のタイミングは同様に遅かったのではないか。

忠宗が同じく16歳で元服したのだとすれば、その年はちょうど宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年*30となる。このあたりの時期に宗尊と烏帽子親子関係を結んだとすれば、当然反得宗勢力と見なされる可能性はあっただろうから、得宗家当主で次期執権でもあった北条時宗*31に加冠を願い出たと考えるのが現実的であろう。

そのように考えるもう一つの根拠として、それまでの「忠―久」が北条氏の通字「」を賜っていること、前述の通り忠宗の嫡男・久も北条時の1字を受けていることが挙げられる。忠宗だけが将軍を烏帽子親にしたとは考えにくく、島津氏嫡流の歴代家督継承者は代々、北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んでいたと捉えるのが自然であろう。よって、島津忠(初名:忠か)得宗北条時を烏帽子親として元服し、その偏諱を賜ったものと判断しておきたい。

 

(参考ページ)

 島津忠宗 - Wikipedia

 島津忠宗(しまづ ただむね)とは - コトバンク

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.105(一五四号「相馬小次郎左衛門尉胤綱子孫系図」・一五五号「京都四条東洞院敷地相伝系図」)より。

*2:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.190~192(一九七号)

*3:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.298(三〇六号)。この系図は、嫡流が忠久の曾孫である忠宗、庶流でも忠久の玄孫の代までで記載が終わっており、鎌倉時代後期の成立と推測され、信憑性は高いと思う。

*4:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.575(五五五号)

*5:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.93(一四八号)

*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.487~489(四九三・四九四号)

*7:年代記弘安7年 より。

*8:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.264(二九九号)

*9:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.22(三三号)

*10:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.22~23(三四号)

*11:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.23(三五号)

*12:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.501(五〇二号)

*13:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.23~24(三六号)『編年史料』後伏見天皇紀・永仁6年正~4月 P.45

*14:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.501(五〇三号)

*15:『鎌倉遺文』第26巻19838号。

*16:『編年史料』後伏見天皇紀・正安2年7月 P.53

*17:前注同箇所。

*18:『史料稿本』正安3年8~9月 P.25

*19:前注同箇所。

*20:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.261(二九八号)

*21:『史料稿本』嘉元3年閏12月 P.27

*22:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三八号)『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年3月 P.60

*23:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.24(三七号)

*24:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.264(二九九号)

*25:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.25(三九号)P.27(四〇号)

*26:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.92(一四六号)

*27:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.93(一四七号)

*28:『史料稿本』後醍醐天皇紀・正中2年11~12月 P.1314

*29:前注に同じ。

*30:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*31:弘長3(1263)年の父・北条時頼(道崇)逝去に伴い得宗家督を継承。執権在任期間は1268~1284年であった。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)を参照のこと。